三国時代・三国志中国の歴史

「泣いて馬謖を斬る」の由来とは?天才軍師が愛弟子を斬ったワケ

魏との決戦・街亭の戦いにて:馬謖が命令違反をする

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馬謖の進言もあり、南方の平定を成功させた諸葛亮率いる蜀は、この後ついに魏と対決することになりました。大軍をもって魏との戦いに臨んだわけですが、この時に指揮を任されたのが馬謖でした。しかし彼は、諸葛亮の言いつけを守らず、大敗を喫してしまうのです。さて、何があったのかご紹介していきましょう。

諸葛亮の北伐

魏と対決姿勢を強めた蜀は、諸葛亮の主導によって「北伐(ほくばつ)」を開始することを決定します。蜀は「蜀漢(しょくかん)」ともいい、前の王朝だった漢を復興することを目標としていたのです。というのも、劉備と漢王朝の王は同じ「劉氏」というつながりがあったからでした。

諸葛亮は、旧主・劉備への恩と忠義をしたためた名文「出師の表(すいしのひょう)」を劉備の息子・劉禅(りゅうぜん)に奉じ、出立しました。

序盤は蜀に有利な展開で進み、魏の領土をいくつか制圧することに成功しました。

しかし魏は蜀を上回る大国。すぐに反撃が始まったのです。

諸葛亮、反対を押し切り馬謖を大将に指名

諸葛亮は、要衝である街亭(がいてい/甘粛省天水市奉安県/かんしゅくしょうてんすいしほうあんけん)で魏を迎え撃つことにしました。この時の蜀の兵力は、魏に勝っていたとも言われているほどの大軍だったそうです。

この迎撃軍の大将に任命されたのが、馬謖でした。

実は、諸将からは「歴戦の将である魏延(ぎえん)らを選ぶべき」との声が挙がっていたのですが、諸葛亮はそれを無視する形で馬謖を抜擢したのです。

そこまで諸葛亮は馬謖を高く買っていたのでしょうか。過度の信頼が、聡明な諸葛亮の目を曇らせてしまったとしか考えられません。

諸葛亮の命令を無視した馬謖

とはいえ、諸葛亮は馬謖に対して忠告をしていました。それは、「山の麓に布陣し、道を押さえること」というものだったそうです。

ところが、馬謖はその言いつけを破ってしまいます。なぜか彼は、山の頂上に陣を布いて魏軍を待ち構えたのでした。

何が馬謖をそうさせたのでしょうか。才気煥発な彼だからこそ、自分の力を過信したのかもしれません。何か秘策があったのでしょうか。

しかし、これがまさに「策士策に溺れる」状態になってしまうことは、この時の馬謖には予見できなかったようです。

街亭の戦いで大敗を喫す

一方、馬謖の副将は、馬謖に対して「諸葛亮の言いつけを守っていない」と諫言しましたが、聞き入れられませんでした。これは、将として最もやってはいけないこと。部下の言葉を聞き入れない上官は、やがて破滅へと向かうのが、昔も今もセオリーですよね。

こうして始まった街亭の戦いですが、結果は、山の上の蜀軍は水路を断たれて孤立し、魏軍の総攻撃を受けて大敗することとなったのでした。

この戦いの大敗は、その後の蜀の行く末をすべて狂わせたと言ってもいいかもしれません。

もし、馬謖が諸葛亮の言う通りにしていたらどうなっていたでしょうか。少なくとも、大敗まではいかなかったのかもしれません…。

私情を捨てた諸葛亮、「泣いて馬謖を斬る」

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命令を聞かず、その結果大敗した馬謖の責任と罪は、途方もなく重いものでした。そして、それを贖うには、命をもってするしかなかったのです。愛弟子に死を申し付けるという苦渋の決断をした諸葛亮は、思わず涙することになったのでした…。

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