三国時代・三国志中国の歴史

「泣いて馬謖を斬る」の由来とは?天才軍師が愛弟子を斬ったワケ

諸葛亮の涙

自分の命令に従わず、勝手に軍を山の上に布陣して敗れた馬謖を、諸葛亮は処罰しないわけにはいきませんでした。

軍律を犯すのは大罪。こうして、諸葛亮は馬謖を処刑するように命じたのです。

馬謖は、諸葛亮に対して「あなたを恨むことはない」と手紙を送ったと言われています。それを目にしてからかどうかはわかりませんが、馬謖の処刑という決断に当たり、諸葛亮は涙を流したそうです。

これが、「泣いて馬謖を斬る」の由来となりました。

様々な説が伝わっている

一方、三国志演義では、諸葛亮の涙の理由として、劉備の言葉を守らずに馬謖を重用した自身の不明を嘆いたからだとも描かれています。

また、馬謖については様々な説が伝わっており、敗戦後に逃亡した上に投獄され、そこで獄死したとも言われていますよ。馬謖の逃亡を見逃した人物を、諸葛亮が罰したという説も伝わっています。

ただ、いずれにせよ、馬謖には死という道しかなかったのでしょうね。

「泣いて馬謖を斬る」の後、蜀はどうなった?

馬謖の独断によって魏に大敗を喫した街亭の戦いの後、蜀は厳しい状況に追い込まれていきます。北伐はこれを含めて5回行われましたが、どれもはかばかしい成果は挙げられませんでした。

そして、諸葛亮にとっては智謀の面で最大のライバルとも言える司馬懿(しばい)が魏の将軍として登場し、両者は知恵を競い合います。しかし、長きにわたって精神と肉体を酷使してきた諸葛亮は、ついに倒れ、最後の北伐の最中に陣没することとなるのです。

諸葛亮の命が尽きると、蜀に彼ほどの人材は登場することはありませんでした。やがて蜀は衰退し、諸葛亮の死から約30年後、滅亡を迎えます。

ヒーローたちも人間だったと感じる故事

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天才軍師だった諸葛亮が惚れ込んだのですから、馬謖もまた群を抜いた才能の持ち主だったのでしょう。ただ、もしかすると馬謖にはおごりがあったのかもしれません。だからこそ、諸葛亮の命令を聞かなかったわけです。長期的な目で見ると、彼のミスが蜀の命運を縮めたことにつながるのではないでしょうか。仮定ではありますが、諸葛亮はそのことに気づき、我が身の不明を恥じたのかもしれません。ただ、こうした故事から、彼らもまた人間なのだということを感じ取ることができますね。

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