江戸中野に巨大ドッグセンターを作る
綱吉治世の1693年に作成された最古の人口統計「正宝事録」によれば、当時の江戸人口は約35万人という記録があります。江戸には上下水道という最新インフラがあったとはいえ、大都市特有の衛生環境の悪さが災いして、常に疫病や伝染病の蔓延が懸念されていました。それらを媒介しているのが、実は野良犬や野良猫といった動物たちだったのです。
そこに着目した綱吉は、江戸の数ヶ所に巨大犬舎を造営する計画を立てました。中野にできた最も大きな犬舎は「中野御用御屋敷」と呼ばれ、面積は実に24万坪。東京ドームが16個丸々入る大きさでした。この施設の中に10万頭もの犬を収容し、そこで養育したのです。
犬たちの食事は毎日、米3合と味噌や副菜など。また、野良犬を保護した村落にも過剰ともいえる援助金を出しました。こうして日本初でありながら、今後もおそらくないであろう巨大ドッグセンターが出現したのでした。
実は合理的な福祉政策だった「生類憐れみの令」
動物保護を目的とした「生類憐れみの令」ですが、莫大な費用を使っての公共事業といえども、そこにはもっと合理的で先進的な目的がありました。天下の悪法の裏側に隠されたその真実を探っていきましょう。
日本人に慈愛の精神を植え付けようとした綱吉
綱吉の治世の頃、戦国が終わってから70年経とうとするものの、未だ世の中は殺伐とした気風が残っていました。幕府初期の武断政治に端を発する大名政策の影響で、多くの藩が取りつぶされ、世間には浪人があふれていました。
また、1640年代に起こった寛永の大飢饉の影響も大きく、綱吉が将軍になってからも幕府の農政改革は進まないままでした。そういった事情から、貧しい者はどんどん大都市へ流入し、江戸の町にスラム街が形成されつつあったのです。そういった混沌とした状況の中で、人々の心は荒れすさみ、弱い者を蔑むことが当たり前のようになっていたのですね。
綱吉には、やはり理想があったはずです。儒学でいうところの「序」(秩序)を保つためには「敬」(つつしみ、うやまう心)を人は持たねばならないと。ところが当世では、人々は我が身のことだけを思い、自分より弱い者に対して慈しみの情がないと。そこで彼は最もわかりやすい言葉で人々に訴えかけたのです。
「弱い存在、かよわき命を憐れみ、慈しめ」と。
悪法といわれる部分もある生類憐みの令ですが、日本の精神史をひも解くと、綱吉がこの法令を出して以降、この「慈愛の精神」こそが日本人の美徳となったのです。
たいして厳しくなかった「生類憐れみの令」
この法令ができたおかげで、人々は皆困り果てた。と記述している文献もありますが、実際はどうだったのでしょうか?
この法令が発布されていた24年間のうちに、実際に罰せられたのは72人。しかし死罪になった者は全くおらず、遠島や流罪になった者も、よほど悪質な虐待行為をしていたものと思われます。たしかに、将軍お膝元の江戸ではそれなりに監視は厳しかったようですが、京や大坂、地方へ行くと、お触書はあるものの、たいして厳しくもなかったと記録に残っているのです。
江戸時代の人々の食生活でいえば、主食はコメで副菜は野菜がほとんどでした。では魚は食べなかったのか?となると話は違います。
ネット上に流れているまとめサイトなどを読めば、「魚や貝などの魚介類の売買や、食べることも禁止!」なんて書かれてることが多いのですが、実は違います。禁止されていたのは生きている魚介類の販売のみで、食材として店頭に並べることは許されていました。あとは漁師以外が魚を取ることも禁止していますね。
要は、目の前で生き物を無用に苦しませず、必要最低限以上の殺生はするな!ということなのです。
「人の権利」を認めた日本初の社会福祉政策
日本では仏教の慈悲の精神から、奈良時代に悲田院や施薬院などを設けて、貧しく困窮した人々を救った事例がありました。しかし、これは限られた地域でしか実施されず、社会全体の福祉政策とは呼べないものでした。
綱吉が進めたのは、社会全体での公共福祉なのでした。先ほど「捨て子対策」のために法令を出したと述べましたが、実際は捨て子だけではなく、病者や老人、貧しい者に対しても等しく慈しむようにと触れを出しています。それだけでなく、罪を犯した罪人のために牢屋の環境改善にまで指示を出していました。
そういった意味で、日本人の誰よりも早く福祉の重要さに気付き、それを実現化したのは綱吉ではなかったでしょうか。後の8代将軍徳川吉宗も、貧しい者が無料で医療を受けられる小石川養生所を設立しますが、これは綱吉の仁政を参考にして行った事業なのです。
早すぎた動物愛護法
「徳」と「仁」の考えをもって、人間だけでなく動物たちをも慈しもうとした将軍綱吉。しかし、当時の日本人の考えはまだそこまで成熟してはいませんでした。綱吉が考えた理想と、人々の現実とは明らかに乖離していたのです。