戦場となったモンサンミッシェルと神の加護
1415年、ヘンリー5世率いるイングランド軍は、この戦いでも圧倒的に優勢で、フランスは敗退に次ぐ敗退を繰り返します。しかし、聖ミカエルの啓示を受けたジャンヌ・ダルクが登場し、オルレアン、パテー、ランスと勝利し、一挙に戦局を盛り返したフランス軍は逆襲に転じたのでした。
ちょうどこの頃にモンサンミッシェルも戦いの場となっていました。1424年、イングランドの大軍勢に囲まれたモンサンミッシェルは、長引く包囲戦で水と食料が尽きかけていました。陥落寸前だったその時、味方の船団がやって来て敵の軍船を蹴散らし、水と食料を届けたのです。
さらには1433年、再びイングランドの大軍に囲まれたモンサンミッシェルは、大砲を撃ちかけられて大苦戦に陥りました。しかし、神の加護があったのか、みるみる潮が満ちてきて、押し流されそうになったイングランド軍は撤退せざるを得なくなったといいます。結局、イングランド軍が全フランスから撤退したのは、この20年後のことでした。
この二度にわたる戦いでイングランド軍を退けたモンサンミッシェルは、「大天使聖ミカエルの加護があった場所」として、巡礼者が爆発的に増え、一気に聖地化するのです。
モンサンミッシェルの見どころその3【ラ・メルヴェイユ】
北面に位置するゴシック様式の建築物です。フランス国王フィリップ2世の寄進よって建てられ、修道士や巡礼者たちの憩いの場でした。中庭は開放的なスペースで、そこが修道院であることを忘れるくらいの壮麗な空間となっています。
宗教戦争による城塞化
「聖ミカエルの加護があった場所」として多くの巡礼者がここを訪れていた時代、モンサンミッシェルもまた本来の修道院としての役目を取り戻し、多くの修道士が学問を究める場所として栄えていました。
しかし16世紀後半、ユグノー戦争(いわゆる宗教戦争)が勃発し、カトリックとプロテスタントの、血で血を洗う抗争の舞台となったのでした。このモンサンミッシェルも城塞化され、プロテスタント側の攻撃を幾度も撃退したといいます。
国家同士の戦いが終わったと思ったら、今度は宗教間での抗争に巻き込まれたモンサンミッシェル。まさに時代によって役目を変えていたといえるでしょう
海のバスティーユ牢獄と呼ばれたモンサンミッシェル
この堅牢な建物群は、18世紀初頭、フランス革命後の「粛清と暴力の嵐」が吹き荒れていた時代にも活用されていました。
革命の騒ぎで修道士がモンサンミッシェルから逃げ出すと、革命政府は監獄として利用し、王党派の人間や反革命分子をどんどん送り込んでいきました。そして約60年もの間、「海のバスティーユ牢獄」と呼ばれ、恐れられたのでした。
こうして修道院は閉鎖され、1966年に再開されるまで長い雌伏の時を過ごします。
観光地化するモンサンミッシェル
監獄だった時代も終わり、世界が近現代を迎えると、モンサンミッシェルは観光地としての役目を担うようになりました。その美しい情景を人々が慈しみ、楽しめる時代になったのです。
島までの道が造られ、鉄道も走るようになりました。そして観光客向けのホテルやレストランなどが軒を連ね、1979年には世界遺産にも登録されています。
環境保護の観点から、現在は土の道ではなく、橋に架け替えられており、現在は年間300万人もの観光客でにぎわっているのです。