フランスヨーロッパの歴史

1300年も紡ぎ続けた信仰の歴史【憧れのモンサンミッシェルの見どころ4選】

王族たちの領地争いで揺れるモンサンミッシェル

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建設された当初は、こじんまりとした聖堂だったモンサンミッシェル。地元ノルマンディー領主の保護の元、発展への道をたどります。しかし、王族間の対立はモンサンミッシェルに「静かな信仰の場」を与えませんでした。

ウィリアム征服王の登場と兄弟の争い

ノルマンディー公国の領主たちは代々、モンサンミッシェルを保護しました。特にリチャード1世は聖堂の修復を行い、聖職者たちの規律を厳しくし、敬虔なベネディクト派の修道士をたくさん入れて、改めてモンサンミッシェルを修道院としたのです。またリチャード1世は、領地を接するブルターニュ王国の息女と結婚する際に、多くの土地や牧場などを修道院に寄進し、モンサンミッシェルは経済的にも豊かになったのでした。

そして11世紀。リチャード1世の曾孫であるウィリアム征服王が登場します。彼はイングランドの王位継承権を求めてアングロサクソンを征服。ノルマン朝を樹立したのです。

彼には4人の息子がいましたが、領地をめぐって長男のロベールと激しく争い、あえなく落馬して死亡。そこで長男のノルマンディー公ロベール、三男のイングランド王ウィリアム、そしてモンサンミッシェルを含んだ地域を領有していた四男のヘンリーで跡目相続争いが起こったのでした。

ヘンリーは長男と三男に攻められて、モンサンミッシェルに籠城しますが、ついに水が尽きて開城します。しかしヘンリーに運が味方したのか、その後、三男のウィリアムもまた不慮の事故で亡くなり、なぜかヘンリーの元へイングランドの王位が転がり込んできたのです。

当時、長男ロベールは十字軍遠征に参加していたので、この事実を知らず。知るやいなや長男と四男との直接対決が始まりました。結果的にはヘンリーが勝利し、イングランドとノルマンディー双方の継承権を手中にしたのでした。

フィリップ2世による占領と、その後の復興

ヘンリーのノルマン朝はその後、プランタジネット朝へと継承され、その系譜は続くかに見えました。しかしここで登場するのがフランス王フィリップ2世なのです。当時のプランタジネット朝の王は、獅子心王リチャード1世。フィリップ2世は、まずはこの手ごわい相手を安心させるために、共に十字軍へ参戦して親しくするなどして接近します。

その裏では、リチャード1世の弟であるジョンを焚きつけて王位を奪うように囁いていたのです。先にフランスへ帰ったフィリップ2世は、リチャード1世の居ぬ間にノルマンディー地方を素早く占領します。

その行為に仰天したリチャード1世でしたが、イングランドへ戻ると、弟の軍勢を打ち破り、ノルマンディーへ渡って奪われた土地をすぐさま取り返したのです。フィリップ2世はここでリチャード1世の強さを再認識。その野望も打ち砕かれたように見えました。しかし、運命はフィリップ2世に味方しました。

リチャード1世が1199年に戦死し、弟のジョンが王位に就いたのです。これを見たフィリップ2世はすぐさま反応し、ジョンの強引な結婚を口実として、プランタジネット朝のフランス全領土の剥奪を宣言。フランス諸侯はジョンを見限り、フィリップ2世は瞬く間にノルマンディー地方を含む多くの地域を占領しました。

1203年、モンサンミッシェルはジョン側に味方したため、フランス軍の襲撃を受け、修道院や町が焼けるといった損害を受けています。しかし当時は十字軍全盛の時期であり、聖ミカエル信仰にも後押しされ、その後はますます発展を遂げることに。13世紀半ばには、現在見るような修道院の形が出来上がりました。

モンサンミッシェルの見どころその2【グランド・リュ】

王の門から修道院中心部へ向かう石畳の道。かつては多くの巡礼者たちが通る「信仰の道」でしたが、現在では多くのレストランやホテル、土産物屋が立ち並ぶ、にぎやかな商店街となっています。

百年戦争とモンサンミッシェルの聖地化

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フィリップ2世による統治が始まり、フランス王国がノルマンディー地方を完全に掌握するかのように見えましたが、実はイングランド側も虎視眈々とノルマンディーを含む旧領を狙っていたのです。それが百年戦争の始まりでした。

長い百年戦争が始まる

フィリップ2世のノルマンディー地方掌握から約130年後。当時のイングランド王エドワード3世は、再びフランスにおける王位継承権を主張してフランスに戦いを挑みます。

北フランスへ上陸したイングランド軍は、各地で次々とフランス軍を撃破。たまりかねたフランス国王フィリップ6世は、王位継承権を譲渡しない代わりに、プランタジネット朝の旧領を割譲します。しかし、せっかく有利な条件で領土を得たイングランドでしたが、フランスでの抵抗運動と、国内でペストが大流行し、国力が疲弊してしまうことに。イングランドでは政情不安も重なって、ランカスター朝へ継承された後も、両国の不安定さは続くことになりました。

それでもなんとか40年かけて国力を回復させたイングランドは、時の国王ヘンリー5世を先頭に押し立てて、再び英仏海峡を渡ったのでした。

 

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