日本の歴史飛鳥時代

天皇中心の国造りの出発点「大化の改新」をわかりやすく解説

改新政治の始まり

乙巳の変の2日後、皇極天皇は弟の軽皇子に譲位。軽皇子は孝徳天皇として即位しました。孝徳天皇は都を難波宮に移し、中大兄皇子を皇太子とします。また、孝徳天皇は年号を大化と定め新しい政治が始まりました。

孝徳天皇が出した改新の詔には今後の政治方針が書かれています。第一に公地公民制。それまで、豪族たちが各自で支配していた土地と人民を天皇のものとしました。第二に地方制度や軍事制度の整備。第三に土地を人民に与える班田収受の導入。第四に人民から取り立てる税制を定めました。

これらの目標がいっぺんに達成されたわけではありませんが、一つ一つ、地道に実現します。最終的には大宝律令で完成することになりました。

この政治改革のさなか、孝徳天皇と中大兄皇子の対立は激しくなります。ついに、中大兄皇子はかつて都があった飛鳥に移動。多くの人々が中大兄皇子に従いました。このことに気を落とした孝徳天皇はまもなく病死します。

大化の改新のその後

image by PIXTA / 23701208

大化の改新により天皇中心の国づくりの方針が示されました。しかし、なかなか順調にはいきません。朝鮮半島では友好国の百済が滅亡し、その復興をかけて軍を派遣しなければなりませんでした。国内では天皇の位をめぐる争いが激しくなります。大化の改新以後の政治の流れを見てみましょう。

斉明天皇の即位と白村江の戦い

孝徳天皇の死後、皇太子だった中大兄皇子は即位しませんでした。かわって天皇になったのはた中大兄皇子の母親で前天皇の皇極天皇。皇極天皇は重祚(ちょうそ)して斉明天皇となります。一度退位した天皇が再び即位することを重祚といいました。政治の実権は引き続き中大兄皇子が握ります。

このころの最重要課題は朝鮮半島情勢。友好国の百済が新羅・唐の連合軍に圧迫されて滅亡したのです。斉明天皇は当時、日本にいた百済の王子を助け百済を復興させるための出兵を命じました。斉明天皇自ら九州に赴きましたが、天皇はその地で死去します。斉明天皇の死後も戦いは続行され、663年、朝鮮南部の白村江で唐・新羅連合軍と激突しますが大敗を喫しました。

天智天皇の即位と中央集権化

斉明天皇の死後に即位した天智天皇は唐・新羅連合軍が日本に攻め込んでくるのではないかと考えて、国内各地の守りを固めました。都を飛鳥よりもさらに内陸の近江大津宮に移したのも、唐・新羅との戦いに備えてのことだったのかもしれません。同時に、近江令を制定するなど国内制度の整備を図ります。非常事態にありながらも、大化の改新の成果を着実なものとしていきました。

天智天皇の死後、天智天皇の子の大友皇子と天智天皇の弟の大海人皇子が天皇の位をめぐって争いました。以前に比べて圧倒的な力を持つようになった天皇の地位はとても魅力的だったからです。戦いに勝利した大海人皇子は即位して天武天皇となりました。内乱の勝利者である天武天皇に逆らえる豪族などありません。天智天皇は飛鳥浄御原令八色の姓を制定し、大化の改新の目的である天皇中心の国づくりを達成しました。

大化の改新は天皇中心の政治の始まりだった

image by PIXTA / 41738326

以前は豪族中心の政治体制だった大和政権。中には争いの中で命を落とすものがいるなど天皇家の力はそんなに強いものではありませんでした。大化の改新以後、天皇中心の国づくりが始まります。こうして奈良時代以降、日本も唐や新羅のように中央集権の国へと変化していきました。国の仕組みが変わる重要事項だから、小学校から教科書に載っているんですね。

1 2
Share: