5分でわかる「十字軍」派遣の理由や影響・その末路をわかりやすく解説
アンティオキアに続く、マアッラ攻囲戦での十字軍がおこなった悪魔の所業が記録されています。
彼らは食糧不足のためやむなく、異教徒(イスラム信徒)の大人を鍋で煮て、子供は鉄串に突き刺してあぶり焼いて貪り食った。
引用元 Gesta Tancredi
あまりにも過酷な飢えによる狂気にさいなまれ、死んでいるサラセン人たちから尻肉を切り取って刻み調理をした。しかしまだ肉に充分火の通っていないうちに、獰猛な口で貪り食ったのだ。
引用元 Historia Hierosolymitana
2-3.ようやく聖地を奪還
その後、十字軍が行う悪魔の所業にふるえ上がったイスラムの有力者たちは、食糧や財宝を提供することで破壊と殺戮から逃れることができたといいます。
やがてさしたる抵抗もないまま十字軍はエルサレムへと到達。さっそく攻囲の準備に取り掛かったのでした。
しかし、イスラム側も聖地を奪い返されてはならじと頑張りますが、十字軍は城壁の弱点を見つけて壁を打ち壊し、そこから一斉に市街へ侵入。この時も数十万という罪のない市民が殺害されたのでした。
Émile Signol – http://nobility.org/wp-content/uploads/2012/05/Jerusalem.jpg, パブリック・ドメイン, リンクによる
エルサレムの市街地は、流されたその血で膝の高さまで没したといいますから、凄まじいものだったのでしょう。イスラムの市民だけでなく、財宝を隠し持っているという疑いだけで多くのキリスト教徒も殺されました。
十字軍にとってエルサレムとは、もはや聖地ではなく破壊と殺戮と略奪の象徴でしかなかったのですね。
この十字軍の成功の後、多くの財宝を収奪した者は祖国へ帰り、またエルサレムやその周辺に居残って宝の山を手放そうとしない者たちもいました。後者は現地に十字軍国家という国を造り上げ、イスラムとのさらなる対立や共存の道を探っていこうとするのでした。
3.史上最悪の十字軍【第4回十字軍】
聖地エルサレムを中心に成立した十字軍国家の存在があったため、第2回、第3回と続く十字軍は主にイスラム勢力との地域限定の戦いに終始しました。それでも最初の十字軍から既に100年以上経過し、イスラム側との貿易を仲介としたベネチアの存在や、ヨーロッパからの巡礼団をイスラム側が受け入れるなど、当初の純粋な十字軍としての意義は薄くなりつつありました。ではいったい何のために十字軍を派遣したのでしょう?それは第4回十字軍で明らかになるのです。
3-1.目的地はもはや聖地エルサレムではない
時のローマ教皇インノケンティウス3世は、新たな十字軍の結成を呼び掛けます。目標は現在のアフリカ地中海沿岸~シリアにまたがるアイユーブ朝が支配するカイロでした。
ここはイスラム教勢力の根拠地でありつつ東西交易の中心でもありました。富と財宝が山のようにあるこの都市を攻撃し、略奪することは金に目がくらんだ西欧諸侯にとって羨望の的だったことでしょう。
もはや聖地奪還などどうでも良く、まるでイスラム教徒たちが蓄えた富や財宝を奪い取ろうとする野盗の集団のようですね。本来の宗教的な目的はどこへやら、これを果たして十字軍と呼んで良いのでしょうか。
3-2.盗賊集団になり果てた十字軍
案の定フタを開けてみれば国王クラスは誰一人参加せず、集まったのは地方領主である貴族や、食い詰めた貧乏騎士たちばかり。しかも予定していた軍勢の数には到底足りない有様でした。
危険を冒してまで意味のない遠征に出かけることを忌み嫌っていた風潮が起こっていたことがうかがえますね。参加した者といえば富に目がくらんだ金の亡者たちばかりでした。
彼らは地中海を渡るための船賃さえ支払えない貧乏ぶりで、結局ベネチア側からの提案で、バルカン半島にある都市「ザダル」を攻略することで船賃代わりにするという条件を受諾します。
やがてイスラム教や聖地エルサレムとは何の関係もない都市を攻撃し、破壊と殺戮の限りを尽くしました。もはや、モラルや正義などどこにもない盗賊集団になり果てていたのですね。
3-3.他国の王位争いに干渉
ここになぜかビザンチン帝国の王子が登場します。彼の名はアレクシオス4世。父に皇位を継がせてもらえず国を飛び出したところを十字軍に泣きついてきたのでした。
「私を皇位に就かせてくれたら十字軍にも協力するし、多額の資金も援助する」と言葉巧みに諸侯たちを掻き口説きました。
そこで十字軍は本来の目的のカイロではなく、ビザンチン帝国の首都コンスターチノープル(現在のイスタンブール)へ向かうことになったのでした。