ヨーロッパの歴史

5分でわかる「十字軍」派遣の理由や影響・その末路をわかりやすく解説

3-4.キリスト教国のビザンチン帝国を滅ぼす

十字軍の攻撃を受けたビザンチン帝国側は抵抗するものの、意外とあっさり降参します。しかし、アレクシオス4世が皇位を継ぐのですが、十字軍との約束は果たしませんでした。

そもそも帝国は財政難に陥っていて金がなく、十字軍に非協力的な人間の反対も大きかったからですね。そこで煮え湯を飲まされた十字軍は再度、コンスタンチノープルを攻めることにしました。

今回も例にもれず徹底的に破壊と殺戮と略奪を繰り返し、同じキリスト教信者でありながら、なんの呵責もない残虐な行為に及んだのでした。

この悪名高く、暴力的な十字軍は、結果的になんの成果もなく終了します。この時、十字軍がおこなった蛮行によって既に仲違いしていたカトリックとギリシャ正教(ビザンチン帝国の国教だった)との間には、もはや元に戻らぬ溝が出来上がってしまったのですね。

4.民衆による十字軍【民衆十字軍と少年十字軍】

image by PIXTA / 9850786

その後の十字軍は、確かに聖地奪回やイスラム勢力との攻防など、ある程度の目標をもって編成されましたが、いつしかローマ教皇ですら主導しなくなり、宗教戦争というよりは私戦の様相を呈するようになったのです。ここでは王侯貴族や騎士による戦いではない、民衆による十字軍を紹介していきましょう。

4-1.悲惨な末路をたどった民衆十字軍

第1回十字軍遠征より少し前、ローマ教皇の呼びかけに熱狂した民衆たちが、聖地巡礼の意味も込めて大挙して遠征した行動でした。

修道僧だった「隠者ピエール」らを指導者とし、意気揚々とヨーロッパを出発したわけですが、カトリック教徒だった彼らにとって、相手がユダヤ教であってもイスラム教であっても異教徒、異端者であることに変わりはありませんでした。

道行く先々でユダヤ人を襲撃し、略奪し、イスラム勢力圏に入っても同様の蛮行を繰り返していたのです。そのような行為をイスラム教国が黙って見過ごすわけにはいきません。

結果、2万もいた集団は、イスラム側のセルジュク朝によって完全に叩き潰され、降伏しなかった者は全員殺され、女子供はすべて奴隷とされました。そして生き残ったほんの一部が正規の十字軍と合流したのです。

4-2.奴隷として売られた少年たち

第4回十字軍の失敗のあと、今度は少年少女たちを主体とする十字軍が編成されました。

「大人はすぐに私利私欲に走り本来の目的を忘れるが、子供は違う。その純粋さゆえにきっと目的を達してくれるだろう」

そんな思いがあったのではないでしょうか。数万人規模の少年少女が集まったらしいのですが、そんな純粋な子供たちを騙すのも、また大人だったのです。

無償で船を提供すると言ってきた商人の口車に乗り、彼らは出航したものの、目的地は聖地ではありませんでした。エジプトの沿岸で奴隷商人の手に陥ち、彼らは奴隷として売られてしまったのでした。

5.十字軍騎士団の栄光と挫折【テンプル騎士団】

image by PIXTA / 42536624

十字軍の長き遠征の歴史の中で生まれた騎士団についてご紹介しましょう。ヨハネ騎士団やマルタ騎士団なども名が知られていますが、中でもテンプル騎士団は、その規模の大きさや悲劇的な最期について、あまりにも有名ですね。

5-1.テンプル騎士団の栄光

テンプル騎士団は元来、聖地エルサレムを巡礼する人たちを保護し安全を確保するための騎士の集まりでした。

その後、度重なる十字軍の遠征に伴って規模が拡大し、その活動地域も広がっていったのです。ヨーロッパと中東を結ぶ地中海において広く物資や人員の運搬、交易品の輸送などの業務を取り仕切り、莫大な富を築いていったのですね。

また、ローマ教皇にも多額の寄付を行い、フランス国王にも大金を貸していたといいます。しかし、そんなテンプル騎士団を快く思っていない人間がいたことも、また確かでしょう。しかしそれが当のローマ教皇やフランス国王だったらどうでしょう。

5-2.テンプル騎士団の悲劇と最期

ローマ教皇は、財力を背景に政治権力まで脅かしてくるような彼らの存在に恐怖を感じ、フランス国王フィリップは、テンプル騎士団からのあまりの借金で苦しんでいた。そうしてこの二人の利害が一致したのです。そう、目的はテンプル騎士団をこの世から消し去ることでした。

フランス国王フィリップは、いきなりテンプル騎士団の本部を襲い幹部級の騎士数千人を逮捕。罪状は「異端者である」という理由でした。

異端者審問ですからもう無茶苦茶。神の聖名の元では何をしても許されます。審問官は拷問によって自由に自白を引き出し、ローマ教皇はもちろん口出しすらせず知らぬ顔。

結果、主要メンバーは残らず処刑され、騎士団も強制的に解散を命じられたのでした。また、そのどさくさに紛れて騎士団が保管していたフランス国王の借用書など残らず処分し、完全に借金を踏み倒したのです。

やがてテンプル騎士団の名誉が回復されたのは、なんと500年も経ってからのことでした。

次のページを読む
1 2 3 4
Share:
明石則実