日本の歴史昭和

盧溝橋事件とは何だったのか!長い日中戦争への入り口

日本陸軍と海軍の不満の爆発と関東軍の暴発

日本は、第一次世界大戦で大躍進を果たし、中国内への進出の足場を築いていました。それに対して、中国進出に遅れをとっていたアメリカは日本の中国進出に強い警戒感を持ちます。アメリカは、イギリスなどと一緒にワシントン会議、ロンドン海軍軍縮会議などにおいて日本の軍備強化を抑える政策をとったのです。これには、陸海軍ともに大きな不満を抱いていましたが、1920年代の日本の外交を主導した幣原喜三郎は欧米との協調外交策を採って軍部を抑えていました。また、軍部大臣も退役軍人の器用が可能に変更されていたのです。

しかし、1929年に世界恐慌が始まると不景気に対する政府への国民の強い批判が高まり、軍部は国民の不満を背景に軍部大臣の現役武官制度を復活させます。そして、政党政治を廃止し、軍部(陸軍)による政治支配が強まったのです。このようにシビリアンコントロール(政府文官による軍部統制)が効かなくなってから関東軍の暴走が始まり、1931年の満州事変に繋がっていきました。

リットン調査団と国際連盟脱退によって日本軍は南下政策

日本の中国での軍事力拡大を恐れた欧米諸国は、国際連盟でリットン調査団を編成し、満州国建国の是非を調査させます。そして、リットン調査団は、関東軍による満州国建国を否定し、国際連盟は満州国を認めず、現状復帰を勧告したのです。これに対して日本の全権大使となった松岡洋右(ようすけ)は1933年に国際連盟からの脱退を通告するに至ります。

国際連盟を離脱した日本は、当時のブロック経済化した世界の市場の中で孤立し、飛行機、軍艦などの軍隊を動かすための石油などの燃料が不足しました。そして、石油を求めて南方への進出を始めるのです。その南下策として、関東軍は、中国本土への進出を画策し、その過程で起こったのが盧溝橋事件でした。そして、南京大虐殺などを引き起こすとともに、石油資源を求めて東南アジア地区にも進出して、イギリス、オランダなどとの摩擦も引き起こしたのです。

盧溝橋事件の背景にあったもの

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関東軍は、盧溝橋事件を利用して中国への進出を進めました。それは、日本を長い戦争に引き込むことになったのです。何故、このような事件が起きたのでしょう。

日本政府もコントロールできなかった関東軍

満州事変が起こったときには、日本政府も寝耳に水の状態で、昭和天皇も激怒されたと言われています。関東軍は、満州事変を引き起こした柳条湖事件以前にも、当時中国の有力軍閥の指導者で日本政府と親しかった張作霖の乗った列車を爆破し、殺していました。それほど、関東軍は全く政府のコントロールが効かない集団となっており、満州国建国は後追いでの認定になってしまったのです。そして、関東軍は再び、満州事変と同じ手を使って、日中戦争に日本を引きずり出します。そのきっかけになったのが盧溝橋事件でした。

日本側の記録には信憑性は低い

このように関東軍は、日本政府のコントロールが全く効かず、多くの虚偽の報告を挙げたり、隠したりして軍事行動を起こしていたのです。従って、日中戦争に戦争などや朝鮮半島支配に関する日本側の記録には彼らの不利になるような記録は記載されていません。当時の政府の記録もそれを否定せずに残しているため、戦前の朝鮮半島の強引な支配や南京大虐殺などの記録は記載されていないのが当たり前なのです。戦前の資料を元に記録がないと主張することには無理があります。

中国国内の分裂状況が日本陸軍につけ入られる

中国の清では1911年に辛亥(しんがい)革命が起こりますが、指導的役割を担った孫文は政権を維持できず、袁世凱(えんせいがい)にとって代わられます。しかし、袁世凱も中国国内に跋扈(ばっこ)する軍閥(軍事集団)をまとめられませんでした。さらに、ロシア革命後のソ連の影響を受けた中国共産党が力を持ち、第一次世界大戦後の中国は分裂状態が続いて外国勢の思いのままに領土を失っていたのです。特にその中でも進出を積極的に行ったのが日本でした。

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