関白設置のきっかけ~光孝天皇による関白設置と藤原基経の関白就任~
貞観3(876)年、父である清和天皇から位を譲られ陽成天皇が即位。この時、陽成天皇は9歳だったので藤原基経が摂政となりました。
陽成天皇は成長するにつれ、藤原基経との関係が悪化。宮中で起きた殺人事件の際、藤原基経が陽成天皇に退位を迫りました。かわって基経が天皇に建てたのが光孝天皇です。
光孝天皇は基経を関白に任命。ひきつづき、政務をとるように命じました。天皇代理といってもよい摂政とは異なり、関白はあくまでも国政を行う上で天皇を補佐する役割で、最終的な決定権は天皇にありました。
とはいえ、関白は当時の政府である太政官(だいじょうかん)から天皇に上奏される文書を天皇より先に見る権利である(内覧)の権利と天皇への上奏を拒否する力がありました。しかし、設置された当時は関白の仕事はまだ確定していません。確定するのは阿衡(あこう)の紛議とよばれる事件が起きた後だったのです。
阿衡(あこう)の紛議~関白の仕事内容が確定~
阿衡の紛議とは、宇多天皇と藤原基経の間で起きたトラブルのことです。基経が天皇に推薦した光孝天皇は即位後3年で死去。かわって子の宇多天皇が即位しました。宇多天皇は基経を引き続き関白に任命する詔勅をだします。この勅書の一節に「阿衡の任」という言葉があったことが騒動の引き金でした。
ある学者が阿衡というのは名前だけの名誉職で政治の権利は持っていないということを基経に告げます。これを聞いた基経は「名誉職なら仕事しないぞ」と政務を放棄してしまいました。今でいうなら、総理大臣が仕事をしてくれないようなもので政務が滞ってしまいます。宇多天皇は再三、基経に謝りましたが基経は聞き入れません。
最終的には、勅書を書いた橘広相(たちばなのひろみ)を島流しにすることで基経の怒りが解けて事件は終息しました。この事件の結果、天皇といえども藤原基経を無視して政治をすることはできないということがはっきりしてしまいました。「関白スゲー、基経強えー」となったわけですね。
豊臣秀吉の関白就任
阿衡の紛議以降、摂政や関白の座は藤原氏が独占することが慣例となりました。平安時代の中期には藤原道長・頼通親子が摂政や関白の地位を長期間にわたって独占。摂関政治が確立します。
藤原氏による独占が唯一、崩れたのは豊臣秀吉による関白・太政大臣の就任でした。織田信長の跡を継ぎ天下人になろうとしていた秀吉は尾張の農民の子。貴族・公卿でもなければ武士でもありません。自分自身の権威を高め、諸大名に天下人として君臨するために最高の官位である太政大臣と天皇の補佐役である関白になったのです。
秀吉が関白の位を甥の秀次にゆずってからは太閤とよばれます。太閤とは元関白といういみの言葉です。いまでは、秀吉の代名詞ともなっていますね。秀吉の死後に力を持った徳川家康は関白の地位を藤原氏に返しました。以後、明治維新まで摂政・関白は藤原氏が独占し続けます。
今も生きている摂政の制度
明治維新以後の皇室の在り方を定めた皇室典範で、改めて摂政の地位が定められます。昭和天皇は皇太子のころに大正天皇の摂政となりました。一方、平成の天皇は摂政の設置を望まず、皇太子に位を譲ることをお決めになったといわれます。すでに過去のものとなった関白と比べ、摂政は現在でも生きている役職といえるでしょう。