越王句践の勝利~会稽の恥をすすぐ~
伍子胥の死後、夫差はますます中国全土での覇権をとることにこだわります。斉を打ち破った後に立ちふさがったのがもう一つの大国である晋でした。夫差は晋とも争って覇者の地位を認めさせようとします。
その時、呉の本国から急報がもたらされました。あれだけおとなしくしていた句践が呉の都を襲ったのです。復讐の鬼となった句践が牙をむいた瞬間でした。句践は呉の都を攻め落とし、留守を守っていた夫差の子を殺害したのです。
その数年後、呉は再び都を奪われ夫差は都のそばの山に追い詰められました。夫差の使者はかつて句践を助けたことを引き合いに出し、降伏を認めるよう懇願しますが参謀の范蠡は「ここで許せば、夫差に復讐されると猛反対。句践は夫差を辺境に島流しにしようとしますが、これを知った夫差は自ら首をはねて死にました。
近代日本で使われた「臥薪嘗胆」
臥薪嘗胆の故事から2000年以上たった1895年。日本は中国を支配していた清との戦い(日清戦争)に勝利しました。日本は多額の賠償金を獲得すると同時に、清国から遼東半島を割譲させることに成功していました。
ところが、それに反対したのがロシアです。ロシアはドイツ・フランスと手を組み三国で日本に遼東半島放棄を迫りました。これを三国干渉といいます。日本はこの圧力に屈し、遼東半島を返還しました。すると、ロシアはすかさず遼東半島をわがものとします。
このことを屈辱と感じた当時の日本。「臥薪嘗胆」を合言葉に大国ロシアへの復讐の機会を狙います。その機会は10年後に訪れました。1904年、戦いの準備を進めていた日本はロシアとの間で日露戦争を戦います。
大国相手の戦いでかなり苦戦しますが、翌年、日本優位の状態でポーツマス条約を結ぶことに成功しました。国民の10年越しの苦労を経てロシアに打ち勝ったのです。
臥薪嘗胆の意味と現代にも生きる教訓
臥薪嘗胆は長い間苦心・苦労を重ねて将来の成功のために頑張ることを意味する言葉です。越王句践は奴隷になるどん底まで突き落とされますが、22年の歳月をかけて復活を遂げました。
今の状態が暗く、つらいものであってもそれに耐え抜いて生きてさえいれば復活できるというのは現代人の人生においても参考にできることではないでしょうか。
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