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明治維新の功労者・未完の大器「高杉晋作」28年の生涯をわかりやすく解説

何度も挫折を繰り返すが、そのたびに復活(良家のぼっちゃんの所以か)

高杉晋作は、師匠である吉田松陰の死後、眠っていた行動力を目覚めさせますが、すぐに長州における手柄を立てられたわけではありませんでした。何度も挫折を味わっています。その背景には、彼の父親である小忠太の配慮によって事前に後退させられることも多かったのです。

長州勢が、京都守護職の会津藩と薩摩藩によって京都から追い出されたことに怒って長州の藩士たちと一緒に京都に上った晋作でしたが、父の小忠太が藩上層部に願い出て萩に呼び戻されてしまいします。その後、京都では蛤御門の戦いが起こり、長州勢は敗北し、久坂玄瑞を初め、多くの倒幕派の志士たちが戦死してしまい、藩の実権は幕府恭順派が握られてしまうのです。しかし、晋作は、事前に呼び戻されていたため、挫折はしますが、命拾いをし、謹慎の後には復活を果たします。

その他にも、文久2年(1862年)には、攘夷として長州討幕藩士たちと一緒に外国公使の襲撃を企てますが、事前に漏れて謹慎させられたりもしているのです。この謹慎の後に、晋作は他の藩士たちと一緒に有名なイギリス公使館焼き討ちを行いました。この時も、晋作は江戸から萩に呼び戻され、隠遁させられています。

久坂死して高杉が残るー長州征伐が結果的に高杉晋作の出番につながった

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久坂玄瑞が死し、桂小五郎も行方不明になり、長州藩内の反幕府派は一時的に弱まります。しかし、幕府が長州征伐に傾き、攘夷が現実的ではないことも判明して、長州藩は大きなピンチに陥るのです。しかし、その際に再び、台頭したのは晋作や戻った桂小五郎を初めとした反幕府派でした。第二次長州征伐の前に、土佐の坂本龍馬の仲介もあり、京都で煮え湯を飲まされた薩摩藩と薩長同盟を結び、外国の船や銃砲を薩摩名義で手に入れた長州藩は、高杉晋作が先頭にたって幕府連合軍を抑え、幕府は将軍の死去もあり、撤退せざるを得なくなるのです。

その後は、幕府の弱体化が明かになり、反幕府運動に対して多くの藩が同調するようになり、明治維新に向けて世の中は動き出すことになります。

明治を見ずに高杉晋作労咳に死す

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高杉晋作は、長州藩を倒幕に向けて舵を切らせますが、彼自身はその戦いに参加することができませんでした。晋作は労咳を患うようになり、戦いに参加せずに下関で療養を強いられたのです。結局、労咳は回復せずに、晋作は自宅にも戻らず、そのまま息を引き取ります。

「英雄命短し」の通り、彼は維新への道を切り開くことしかできませんでした。しかし、彼がいなければ、維新が成功したかはわかりません

彼の辞世の歌が残されており、「おもしろきこともなき世をおもしろく」と彼らしく詠んでいます。

現代に通じる高杉晋作の発想

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よくドラマなどでも出てくる高杉晋作はかっこよく、倒幕の先頭を走っていましたが、病のため、明治維新を見ずに亡くなっています。しかも、彼の生涯がすべてかっこよかった訳でもありませんでした。吉田松陰と巡り合うまでは、単なるお坊ちゃん武士で、松陰の死後倒幕に目覚めますが、何度も挫折もしています。それでも諦めず、何度でもやり直して明治維新への道筋を打ち立てて亡くなっているのです。彼がいなければ、倒幕も明治維新もなかったとまで言われています。このような、何ごとにも諦めず、自分の信じたことに向けて突き進む姿勢は現代でも必要なのではないでしょうか。

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