吉田松陰は高杉晋作を目覚めさせるため久坂を褒めちぎった
吉田松陰は、高杉晋作の人を引き付ける魅力と、自分というものが見えていない晋作の本来の資質を見抜き、勉学によって自分の進むべき道を学ぶように諭します。でも、なかなか前に進まない晋作をみて、彼の闘争心に火をつける方法を思い付いたのです。それが、晋作の前で玄瑞の勉学に対する姿勢や知識の高さを誉めちぎり、反骨心を呼び覚ます方法でした。この松陰の教育方針は的中して、それ以降、晋作は勉学に励むようになり、松下村塾でも2大弟子と言われるようになるのです。久坂玄瑞も晋作を認めるようになり、友として付き合うようになりました。
吉田松陰の人を見て、その人に合わせた教育を行う方針は、教育者として画一的な教育しかできなくなっている現代教育に警鐘をならしているのではないでしょうか。一方、晋作は勉学に励むようになりますが、彼は自分の目で見て確信を得たものしか信じない面があり、まだ、この当時はまだ覚醒しているとは言えませんでした。
高杉晋作の子分、伊藤俊輔(博文)と井上門多(薫)
高杉晋作が人を引き付ける魅力は、生まれついた時から持っていたもので、彼の周りには後に明治時代を牽引した人物たちが集まっていました。代表的なのは伊藤俊輔と井上聞多です。後の明治憲法を制定し、初代総理大臣になる伊藤博文であり、井上は大蔵卿として幕末に結ばれた不平等条約の改正を目指して、有名な鹿鳴館で毎夜園遊会を開催しました。伊藤俊輔は晋作の腰巾着の如き存在で、4ヶ国連合艦隊との交渉においては拙い語学力で晋作の通訳もしていたのです。
また、明治時代の徴兵制を制定して長州閥をバックに日本陸軍を作り上げ、総理大臣にもなった山県狂介(有朋)も松下村塾では晋作と近い関係にあり、後に晋作の作った奇兵隊を率い、倒幕において重要な役目を果たします。
このように、高杉晋作は、時代を動かす人たちを回りに集め、後に倒幕運動に向けて動き出したのです。
吉田松陰が死して初めて高杉晋作は目覚める
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吉田松陰が生きている間には、高杉晋作の本領が発揮されることはありませんでした。松陰が長州の幕府恭順派によって捕まり、江戸に送られる際に、弟子たちは松陰に幕府への為心はないことを主張するように勧めます。しかし、松陰は頑として首を縦に振らず、逆に弟子たちに対して「何故立ち上がらないのか」と攻めたてるのです。晋作もこの時には他の弟子たちと一緒に松陰に発言を翻すように懇願していました。
しかし、松陰は頑として自分の主張を変えず、逆に小伝馬町の牢獄では幕府に意見書を提出し、自分の主張を堂々と展開して、結局、斬首されてしまいます。これによって松陰の弟子たちは自分たちの不甲斐なさに気が付きますが、その中でも最も大きなショックを受けたのが晋作でした。彼の行動はそれ以降、倒幕に傾き、勤皇攘夷(尊攘運動)に突き進むのです。(攘夷とは外国船を打ち払うこと)
松陰の死は、長州の若者たちの心に火をつけ、時代は大きく変わっていきますが、まだまだ晋作にとってもさまざまな挫折が待ち受けていました。
機略の天才高杉晋作の真骨頂
高杉晋作の活動家としての機略については、身分に囚われず編成した奇兵隊によく現れています。また、第2次長州征伐における彼の獅子奮迅の活躍は長州を救うとともに、その後の倒幕の動きを決定付けた点で、維新の英雄と言うことができるのです。何物にも囚われず、動ける自由な発想は、戦国時代に桶狭間の戦いに勝利し、農業に縛られた武士を農村から切り離して、いつでも出陣できる軍団を作り上げた織田信長に通じるところがあります。
このような晋作の機略は、松陰が亡くなってから、発揮されており、師匠である松陰の死を覚悟した決意が晋作を突き動かしたと言えるでしょう。その後、上海に遊学したりして見聞を広め、自分の目で各地が植民地になっている清(中国)の生の実情を知り、彼の心に倒幕の炎がつくのです。
自分の見たものと感性に従う高杉晋作
高杉晋作は、烈火の如く動きますが、彼は自分で実際に見たものしか信じず、自分で信じたものには猪突猛進なところもありました。かつて、香港に留学した時に、中国の清の領地であった香港がイギリスに割譲された結果、中国大陸には欧州列強国がどんどん植民地化をしている様を見て、欧州勢の姿勢を理解した晋作は、帰国後は欧米諸国を信用せず、特に領土においては絶対に譲歩しませんでした。
4ヵ国連合との高杉晋作の交渉が日本を救った
長州は文久4年(1864年)に攘夷(外国打ち払い)の率先した実行として、関門海峡を通過した4カ国(イギリス、フランス、アメリカ、オランダ)の艦隊に対して砲撃を仕掛けますが、逆に4ヵ国連合艦隊は関門海峡から長州を砲撃して、こっぴどく叩き、大きな被害を受けるとともに、その攻撃力に恐れを持った藩の中枢は幕府への恭順派が握ってしまいます。
4カ国は、さらに砲撃に対する賠償を幕府に要求し、幕府は賠償は長州に要求するように対応したため、長州藩は苦境に陥ったのです。そこで、藩命で交渉役に高杉晋作を指名し、晋作は伊藤俊輔を通訳として交渉に当たります。晋作は、香港の例を実際に見ていたため、賠償では、他の要求はすべて飲むものの、領土割譲に対しては絶対に譲歩せず、のらりくらりの交渉を繰り返して結局、欧州勢はあきらめてしまったのです。
通訳をしていた伊藤俊輔は、後に明治の世になってから、その時のことを、「もし高杉晋作が領土割譲を認めていたら、明治維新はできなくなり、日本は中国と同様に各地に外国の領土ができていただろう」と言っています。すなわち、高杉晋作は日本を救ったと言えるのです。