三国時代・三国志中国の歴史

『三国志演義』随一の義将、関羽の生涯

荊州制覇から関羽の死まで

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赤壁の戦いの後、劉備は荊州を手に入れます。曹操が手を引いた一瞬のスキを突いたのです。その後、劉備は諸葛亮が提案した天下三分の計に従い、中国西部の蜀の地に兵を進めました。

荊州は天下三分の計にとって最重要地点です。ここを守る大役を任される人物は関羽を置いてほかにいません。しかし、関羽のプライドの高さが思わぬ展開の原因となるのです。

劉備による荊州平定戦

赤壁の戦いの後、曹操は荊州北部の守りとして曹仁を残し、軍の大半を都に引き上げました。荊州の多くのの地域ががら空きとなったのです。すかさず劉備は兵を出して荊州を平定。なかば独立状態だった荊州南部も支配下に組み込みました。

この時、関羽は長沙の平定を担当しました。長沙守備隊にいた老将軍黄忠と激しい一騎打ちを繰り広げ、互角の戦いを演じます。戦いの後、善戦した黄忠は劉備に従い、ともに劉備のために働くことになりました。

しかし、劉備による荊州平定は同じく荊州を狙っていた孫権との間でトラブルの種となります。のちに、関羽が呉との戦いで戦死する伏線となっていきました。

劉備は蜀を平定し、関羽は五虎大将の筆頭となる

荊州を平定した劉備は西の蜀を攻めます。劉備は張飛と副軍師の龐統を引き連れて蜀へと進軍しました。最初は順調でしたが、蜀を支配していた劉璋軍の反撃にあい、龐統を失ってしまいます。

かわりに諸葛亮が蜀に赴き劉備を助けることになりました。こうして、関羽は最重要地点である荊州の最高責任者となったのです。当時の状況を考えると、関羽以上の適任者はいなかったでしょう。

劉備は蜀を平定し、さらにその北の漢中も手に入れました。漢中王となった劉備は配下のうち最も有力な関羽・張飛・馬超・黄忠・趙雲の五人を五虎大将に任じます。その筆頭はもちろん関羽でした。

荊州をめぐる呉との対立

大陸中央部に位置する荊州は人口も多く、土地も豊かであったため曹操も孫権も劉備も欲しがった場所でした。赤壁の戦いの後、孫権は周瑜をつかわして荊州を占領しようとしましたが劉備や諸葛亮に先を越されてしまいます。

215年には魯粛・呂蒙らを派遣して荊州南部を攻撃しようとしますが、曹操と戦うことを考え決定的対立を避けました。魯粛の跡を継いで呉軍のトップに立った呂蒙は、関羽を表面上立てて彼のプライドを満足させました。

一方、孫権が提案した関羽の娘と孫権の子との婚姻を関羽は断ります。このことに孫権は怒りました。関羽と呉は引き続き緊張状態にあったのです。

樊城(はんじょう)の戦いと関羽の敗北

219年、関羽は曹仁が守る荊州北部の樊城を攻撃します。曹操が派遣した救援部隊を率いる于禁を撃破。関羽はますます意気上がります。曹操は参謀の司馬懿らの提案を受け入れ孫権に関羽の背後をつくよう依頼しました。

関羽と対立していた孫権はこの提案を受け入れ、呂蒙に関羽攻撃を命じます。関羽は曹操軍と孫権軍に挟まれ窮地に陥りました。孫権は一気に関羽を滅ぼすチャンスと考え、関羽軍を追撃します。

孫権軍は占領した地域では略奪を禁じました。関羽に従う荊州の将兵たちは家族が無事であることを知ると、次々に離脱します。

関羽はわずかな手勢とともに西の麦城に逃げ込みました。そこからさらに西の蜀へ逃げようとしたところ、孫権軍に囲まれ捕虜となってしまいました。

関羽の死

孫権は関羽を息子関平とともに斬首しました。関羽の首は曹操のもとに届けられます。劉備の恨みをそらすためだったのかもしれません。曹操は関羽の首を丁重に葬りました。

関羽の死の知らせを聞いた劉備は怒り狂います。諸葛亮や趙雲の制止も聞かず呉へと兵を進めるのです。途中合流するはずだった張飛は、部下の裏切りによって殺されてしまいました。

張飛殺害犯は張飛の首をもって呉へと逃亡します。劉備の怒りはますますつのりました。222年、劉備軍は夷陵の地で呉の陸遜と戦います。しかし、劉備は陸遜の計略にはまって大敗。白帝城に逃れるとその生涯を閉じたのです。

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