斎藤一と鳥羽伏見の戦いから会津への連戦
鳥羽伏見の戦いでは、最新兵器をもって戦ってくる新政府軍に、旧式武器しか持たない旧幕府軍と白兵戦が得意な新選組は歯が立たず、大阪まで敗走して、江戸へと海路で戻ってしまったのですね。江戸に戻ってから斎藤一は神田和泉町にある医学所で治療を受けた記録があるので、負傷していたのですね。以後も斎藤一は第一線で戦い続けたといいますよ。
3月に、新選組は「勝海舟」から「甲陽鎮撫隊」という名前で新政府軍より先に甲府城をとるようにと命令されますが、1日違いで新政府軍の「板垣退助」の隊にとられ、激しい戦いの末に敗走。江戸に帰ってから、近藤勇と試衛館の時代からの仲間だった永倉新八と原田佐之助が離脱。斎藤一も同行したという話もあるようですが、流山で近藤勇が新政府に投降した時に軍事演習の指揮をしていたという話が有力なのでないでしょうね。近藤勇の助命嘆願に江戸に戻る土方歳三から新選組を率いて会津に行くように命じられます。
会津での斎藤一の戦い
斎藤一は新選組を率いて会津藩の指揮下に入りました。土方歳三が宇都宮で足に重傷を負ったために、隊長としての戦いが続きます。土方歳三の療養中に、会津藩主・松平容保の肝いりで天寧寺に近藤勇の墓ができました。板橋で斬首されて京都で晒されていた近藤勇の首を斎藤一が奪って会津に持って帰り、墓に埋葬したという話がありますが、真実なのかはわかりません。
土方歳三が戦線に復帰して「母成峠の戦い」に参戦したものの、多勢に無勢のために敗走。そのために会津城下に新政府軍が攻め込んでくることになります。土方歳三は庄内に援軍を求めることに決めましたが、斎藤一は会津に残って戦うことに決めたのですね。「新選組の主君は松平容保だから最後まで戦う」と言ったので、先に書いた実は会津藩士だったのではないかという説になったのですね。ゲリラ作戦で新政府軍と戦っていた新選組ですが、いよいよ敗色が強くなると隊士の大半は土方歳三を追って仙台へと向ってしまいました。数人となってしまっても戦い続けた斎藤一。慶応4年(1868)9月22日に会津藩が降伏しても戦っているので松平容保が使者を送り説得します。そこでようやく投降することになったのでした。
斎藤一は斗南藩士となる
投降した斎藤一は、他の会津藩士達と一緒に旧会津藩領の塩川と越後高田とで謹慎生活を送りました。会津藩は改易(藩がなくなる)となって藩主の松平家は断絶という命令がおりましたが、明治2年(1869)11月3日に再興することが許されます。しかし会津から下北半島へと移転を命じられて、そこを「斗南藩」と名前をつけることになったのですね。一説によると「南(薩長)と戦う」という意味だそうですよ。明治3年に斎藤一は現在の青森県にある五戸町に移住することになりました。余談ですが、この町にはキリストが処刑から逃れて住んでお墓がある伝説が残っているところです。
斗南藩のその後
新政府に反抗した藩は、藩名を強制的に変えられました。幕府時代と同じ名前のところは、新政府と共に行動したと言うことですね。調べてみると面白いかもしれません。それで元南部藩だった盛岡藩の中にに設置されていた旧三戸県5万2,339石の内、北郡・三戸郡・二戸郡内に3万石下北半島に会津藩士たちは移住しますが、この土地は火山灰が多く含まれて極寒だったために作物が育ちにくく、かなりの苦労をしたという記録がありますね。明治4年には斗南藩は廃藩置県で斗南県となりますが、他の所と合併して青森県に組み込まれて斗南県もなくなりました。
斎藤一は結婚する
明治3年に斎藤一は、会津の名家で白虎隊で自刃した隊士の親戚である「篠田やそ」と結婚しますが別離します。その後の明治7年(1874)3月17日に、元会津藩の大目付だった高木小十郎の娘である「時尾」と再婚しました。小説やドラマでは時尾さんしか出てきませんね。その時に名前を「藤田五郎」と変えていますよ。上仲人が元会津藩主の松平容保で、元会津藩家老の佐川官兵衛と山川浩や倉沢平治右衛門という重鎮が下仲人といいますから、皆から祝福されたことがわかりますね。
斎藤一は警視庁に入る
明治7年(1874)7月に斎藤一は、東京に移住します。結婚してすぐなんですね。なぜ行ったのかというと、その年の1月に明治政府が元津山藩江戸屋敷に「警視庁」を設立して佐川官兵衛に出仕をうながしたのですよ。斎藤一も貧困で困っていた旧会津藩士たちと一緒にいったのでしょうね。そして警視庁に採用されたのですね。新政府になって混乱している江戸改め東京の治安を守るためなのでしょうが、なんだか新選組と同じような感じですよね。