幕末日本の歴史江戸時代

【新選組】ミステリアスな剣士・斎藤一の波瀾万丈な一生

斎藤一と西南戦争

明治10年(1877)になると、新政府に不満を持つ元武士である士族が各地で反乱を起こし始めました。そして2月に有名な「西南戦争」が勃発します。同じ月に警部に昇進。5月に警視庁は別働第三旅団という元武士を中心とした「警視隊」が結成されて豊後口警視徴募隊二番小隊半隊長となって西南戦争に参加するのでした。大激戦となった田原坂での戦いでは警視隊の中でも腕が立つ「抜刀隊」が結成され、敵の弾を受けながら奮戦して大砲2門を奪取したと東京日日新聞にも取り上げられますよ。その功績から明治12年(1879年)政府から勲七等青色桐葉章と賞金100円を授与されたのですね。

警視庁退職とその後の斎藤一

明治14年(1881)一度は廃止された警視庁の再設置で11月に巡査部長となりますよ。その後の明治18年(1885)に警部補となって、明治21年(1888)に麻布警察署詰外勤警部として勤務することになりました。そして明治25年(1892)12月に退職します。

明治27(1894)年4月、元会津藩士だった高嶺秀夫が校長をしていた「東京高等師範学校(現・筑波大学)」にすすめられて、現・湯島聖堂になっている「東京高等師範学校附属東京教育博物館」の看守(守衛長)となって明治31年(1898)まで在職しました。在職中は学校の撃剣師範を務めて学生に教えていましたよ。明治32年(1899)に退職して「東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)」に庶務・会計係となりました。奥さんの時尾さんも同じ学校の寄宿舎の舎監をしていたといいますね。登下校の時は人力車の交通整理もしたといいますが、変な虫がつかないようにする役目もあったのでしないでしょうか。明治42年(1909)に退職しました。

 

斎藤一の最期

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大正4年(1915)9月28日、斎藤一は享年72歳で亡くなりました。死因は胃潰瘍といわれていますね。場所は東京府東京市本郷区真砂町の自宅です。亡くなる寸前に息子の嫁さんに身体をきれいに拭いてもらい、新しいふんどしをしめると、床の間に座り結跏趺坐をして往生をとげたのでした。本当に武士らしい最期ですね。福島県会津若松市の阿弥陀寺にお墓があります。

斎藤一のお墓の現在

阿弥陀寺へお墓参りをした時に、お線香を置く場所にタバコが数本置いてあり、同じくお墓参りに来たと思われるご婦人達が「なんと罰当たりな、たばこの吸い殻を捨てていくなんて」と憤慨していたので「たぶん『るろうに剣心』に出てくる斎藤一がずっとタバコをくわえていたからだと思います」と教えてあげました。「あらまあ」と驚いてましたが、普通はそう思いますよね。

このお寺は会津藩の若松城の小天守だった「御三階」と本丸玄関の破風が移転されているのですよ。戊辰戦争で亡くなった方達を埋葬した墓所もありますね。参拝した時にご住職が逝去されていたと書いてありましたが、あれからどうなったのでしょうか。「同じ宗派なら、自分が行きたい!」と叫んでいた知り合いのお坊さんもいました。新選組が好きな方が多いですよ。

波瀾万丈な生涯を走り抜けた斎藤一は立派な武士でした

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新選組三番隊隊長・斎藤一は幕末から大正までの時代を走り抜けていきました。会津の人間として最期をとげましたが、臨終の時に脳裏に走馬燈のように浮かんだのはいつの頃だったのでしょうか。武士らしい精練とした最期の姿は心打たれるものがありますね。

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紫蘭