日本の歴史江戸時代

徳川吉宗が行った大改革「享保の改革」とは?わかりやすく解説

新田開発と税率の変更

肥料や農具の発展によって生産力の向上が続いていくことになりましたが、これが続いてしますとやがて頭打ち状態になってしまい、さらに米価も安くなった江戸中期には幕府は財政的に困難になっていました。

そこで吉宗はこれまで好き勝手に土地を耕せない法律をなくしていき、これからはどんな土地でも新田として開発できる制度を整えていくようになりました。

これによっていわゆる新田開発ブームが訪れることになり、役人や商人などが新田開発を行っていくことになりました。

(ちなみに町人によって開発された新田を町人請負新田、代官によって開発された新田を代官見立新田といいます)

また、これまでは検見法という米の収穫具合で毎年税率を調整する方法をとっていましたが、この制度では税収が安定しないというデメリットをもたらすことになります。

そこで吉宗は定免法という数年間税率を一定にする税率を導入。これによっていつの年でも同じ年貢の量が幕府ち入っていくことになって比較的税収が安定するようになりました。

また、幕府は財政をなんとか立て直すために全国の大名に上げ米の制を発令。

これは大名に対して石高1万石につき100石の米を税をして徴収するという制度で幕府はこの財政負担を行う代わり参勤交代を半減させました。

しかし、この改革は幕府の威信低下につながる恐れがあるためしばらくしたら廃止されました。

質流れ禁令

享保の改革は基本的に成果が上がっていましたが、その中には失敗してしまった改革も存在していました。その改革が質流れ禁令です。

質流れ禁令とはようするに借金の担保に農民の田畑をしないという法律で、借金が返済できない場合に農民の土地をなくさないようにする法律でした。

しかし、この法律によって質地騒動と呼ばれる暴動が起きる始末になってしまいます。

さらにはこのややこしそうな法律を一部では借金帳消しの法律である徳政令と勘違いした農民も多くいて質流れ禁令は翌年早々に撤回されました。

しかし、それでも農民が土地の質入れをすることはまずいと思った幕府は田畑永代売買禁止令を廃止にすることはなく、明治時代になるまで続けられることになりました。

株仲間結成の許可と米の価格操作

吉宗は諸色高の米価安の状態を何とかするために物価対策も行いました。

そこで物価の上昇を解決するため株仲間結成を認めます。株仲間とは、商工業者が幕府や藩から許可を得て結成した同業組合のことで、この株仲間の結成を許可すれば株仲間があらかじめ物の価値を決めることができるようになり、独占的な営業が行われることになりました。

そうなれば商人同士の競争がなくなり物価が安定すると考えたのです。

また米価対策も力を入れており、大坂の堂島の米市場を公認して米の価格操作を図ろうとしました。こうすることによって大名や商人が米の買い占めができるようになり、米の流通を減してそして米の価格を上げようとしたのです。

このように吉宗はコメの政策に力を入れたので『米将軍』と呼ばれることになりました。

相対済令

相対済令は、日本の江戸時代に出された貸借関係の訴訟を幕府は取り上げず、当事者同士で解決するようにした法令です。もともと1661年から出されてはいましたが、吉宗が1719年に出した相対済令はもう完全に金の貸し借りのことは幕府はずっと取り上げないことをきめました。(ただし、相対済令を悪用した借金の踏み倒し行為は例外)

この法令が出されたのは、「金銭に絡む訴訟が増え、評定所もその処理にかかりきりになり、本来の仕事がほとんどできなくなっているため」とされています。というのも年内に処理できたのが約3分の1ほどで残りはすべて後回しとなっていたのです。

ようするに「幕府の負担にならないようになるべく解決してね」というものだったのですね。

公事方御定書

そしてこのようにパンクしかけの裁判をスピーディーにするためにあらかじめ公事方御定書を制定することによってすぐに刑罰を確定でき、裁判も早く終わらせて裁判所の負担軽減につながりました。

これができる前は基本的に刑罰は死刑か追放刑と乱暴なものでこの法典ははじめて明文化してかつ更生の概念を取り入れた革新な法律であり、ここから幕府の基本法典として利用されていくことになります。

また極秘裏に諸藩でも公事方御定書を自藩の法令制定の参照としていました。

享保の改革のその後

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享保の改革によって幕府の財政は大きく改善させていき、これまで火の車であった幕府は黒字経営となっていくようになります。

そのことは後々の寛政の改革、天保の改革の手本ともなっていきました。

しかし、その一方で米をあまりにも重視しすぎだこともあり、農民に対する負担がどんどん高まっていくようになりました。

吉宗はいわゆる徳川家康の頃の政治を理想としており、その理想を叶えようとするあまりにいわゆる逆行する政策を立て続けに行っていくようになりました。

また、財源を何とかして立て直そうとする一心で米の対策や物価の対策を急いで行ったおかげでいわゆる一時凌ぎの政策を乱発。

特に上米の令はこれまで一方的であった幕府の権力を大きく弱めることとなり、ここから一方的に幕府の権力は緩やかに低下していくようになります。

さらに農民にとってキツかったのが定免法の制定と四公六民(4割)から五公五民(5割)に引き上げたことでした。実質的に税率が上がった上に、さらには定免法を取り入れたことで飢饉の時でも同じ税率が適応されることになってしまいます。確かに、豊作の時にはお米を貯蓄できるだけの余裕ができるとは思いますが、この定免法を制定したおかげで、基金が乱発していくようになり、農民にとっての過重負担となっていきました。そしてその負担はやがて農民の不満を招くことになり、やがて一揆という形で大爆発するようになります。

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