4-1長州の一員となる
長州藩は尊攘回復のため勇姿を集めており、慎太郎は一員となります。有志たちは、九州や四国、遠くは水戸まで送り込まれていたのです。慎太郎は実美の家臣二羽出雲守らと京へ行き、薩摩の動向を探ります。
京では阿波藩士に変装し、学習院講師中沼了三塾に大胆にも入塾を試み成功しました。見破られますが、御赦免といった感じだったようです。薩摩藩の西郷隆盛の弟信吾(後の従道)や中村半次郎らとも深く関わりを持ちます。長州の高杉晋作と肝胆相照し、久坂玄瑞とも公武合体を唱える薩摩の島津久光暗殺を目論んだようです。長州藩に計画が露呈し、高杉と久坂は帰国させられます。
薩摩藩士と関われたのは、慎太郎が土佐出身だったから。土佐出身を利用し、京に潜む様々な藩の攘夷派と交流を深めたとか。先に脱藩した龍馬は、勝海舟の弟子になっていました。国政が急速に尊王倒幕へと傾倒し、薩摩と長州に取り残された土佐藩は焦ります。慶応3(1863)年に薩長と強いつながりを持つ、慎太郎と龍馬の脱藩の罪を土佐藩主山内容堂から許されました。
4-2禁門の変に参加する
長州藩や土佐藩などの尊攘派志士を新選組が襲撃した池田屋事件では、三田尻にいたため参加していません。6月9日に長州の人々は事件を知り憤激。長州の復権をかけて、幕府勢力の会津と薩摩を相手に京都御所で激突する、「禁門の変」へと発展します。
京を脱走した七卿や真木和泉らの浪士と共に、慎太郎も遊撃隊来島又兵衛軍に属しました。慎太郎は、敵弾で足を負傷し戦列を離れ、中沼塾での面識者薩摩支藩鳥居大炊左衛門邸に逃げ込んだのです。この時薩摩の真意は長州を撃つことではないと聞き、薩長和解作の模索のきっかけとなりました。
長州は、会津藩主松平容保の軍に敗れました。慎太郎は禁門の変への参加前に、父と義兄に遺書を送っています。この戦いで土佐脱藩者の多くが亡くなり、慎太郎は「小攘夷」に限界を感じ馬関(下関)戦争には参加していません。龍馬の進言で、参加を見送ったとも。慎太郎は龍馬と相談し合っています。龍馬は「時々意見は対立するも、中岡以外に誰に相談できるのか。」と思っていました。この二人の連合がなければ薩長同盟は不可能だったのです。
志は同じでも考え方や組織造りも全く違う二人は、色々なことを多方面から相談し合ったのでしょう。再び長州へ逃れ、長州藩諸隊のひとつで、脱藩藩士を構成員とした「忠勇隊」の隊長となります。
5.慎太郎の栄華と横死
長州と薩摩を連合させれば幕府を倒せると、志士たちの誰もが気付いていたのです。でも、坂本龍馬と中岡慎太郎の共同作業でなければ不可能でした。当時の朝廷は、絶対的な立場でした。先を見越した慎太郎は、公家たちを味方に付け、倒幕への地ならしをします。
5-1薩長同盟の志を継ぐ
薩長同盟に始めに着手したのは福岡藩の月形洗蔵で、慎太郎と親しく連合工作に関与します。第一次長州征伐で福岡藩は、討伐を中止し長州周旋に務めました。月形は、討伐中止のために五卿を説得し、長州藩外へ移転させます。筑前勤王党を佐幕派が弾圧した「乙丑の獄(いっちゅうのごく)」で、月形は薩長同盟の志半ばで斬首となったのです。薩長同盟のための連合は、慎太郎と龍馬の二人が継ぎまとめ役となりました。
その間、下関、大坂、京、太宰府、長崎、鹿児島などを歩き、情勢の収集に勤めました。龍馬と共に薩摩と長州の和解工作に尽力します。元治元(1864)年12月4日に福岡藩寺石貫夫と名乗り、豊前小倉(現:福岡県)で大島三右衛門こと西郷隆盛と会談したのです。
この時西郷隆盛を暗殺覚悟で臨んだのですが、相撲観で意気投合し後に薩長連合や薩土密約などで意気投合する礎を築きます。西郷も慎太郎のことを内心感服しており、維新の重要な前兆になったようです。
5-2薩長同盟成立
薩長の主要な志士たちと深く関わる慎太郎と龍馬は、人脈を利用し薩長同盟成立を目指し奔走します。下関会談のため長州の桂小五郎を龍馬が出迎えに出させるも、慎太郎が連れてくるはずの西郷は佐賀関で理屈をこねて下関を素通りし京都へ行ってしまうのです。待ち合わせ場所には、漁船に乗った慎太郎のみ。激怒した桂を、説き伏せ次のチャンスを待つよう説得しました。
長州征伐に備え急ぎ軍備を整えたい長州に、薩摩名義で買った武器を転売させる作戦でした。というのも、馬関戦争で攘夷を実行した長州は、諸藩から四面楚歌になっていたのです。最新鋭の武器を提供するとの薩摩の申し出は固唾ものでした。
西郷がいる京の薩摩藩邸に桂を連れ、トップ会談を実行させます。しかし、プライドのぶつかり合いで話は纏まりません。龍馬の「藩のプライドに拘るな!」の一括で纏まりました。苦心した薩長同盟は、慶応2(1866)年1月21日にやっと成立したのです。これを慎太郎が知ったのは2月10日で、三田尻から京に急ぎました。同盟直後の寺田屋事件で負傷した坂本龍馬を見舞い、お龍との結婚の媒酌人を西郷隆盛と務めています。
5-3陸援隊を組織する
慶応3(1867)年4月に、龍馬と共に脱藩の罪が赦免されます。慎太郎は、京都に本部を置く土佐藩の遊撃軍のような立場の「陸援隊」を組織し7月27日に隊長に就任しました。これは、小松帯刀邸で締結された「薩土密約(薩摩と土佐の実力者間で交わされた武力討伐のための軍事同盟)」の元で作られた尊攘思想の浪士隊(武力集団)です。龍馬は貿易結社「海援隊(私設海軍・貿易)」を作っていますね。海援隊と陸援隊を合わせて「翔天隊」と呼ばれています。
慎太郎は今後朝廷との関わりには、公家の力が必要と判断し、皇女和宮の降嫁問題で対立していた、尊攘派の三条実美と維新の立役者岩倉具視の誤解を解き和睦させたのです。そして、王政復古討幕に、公家集団を巻き込みました。この一件は、慎太郎がどれだけ先見の眼があったのかを示しています。