幕末日本の歴史江戸時代

坂本龍馬のブレーン「中岡慎太郎」薩長同盟の真の立役者の人生を解説

2-3土佐勤王党に加盟する

文久元(1861)年8月に慎太郎の剣の師武市半平太は、薩摩と長州の尊攘派と連携する尊王攘夷運動を目的とした「土佐勤王党(とさきんのうとう)」を、江戸土佐藩中屋敷に結成。直後に慎太郎も加盟します。

武市道場で腕を鳴らした慎太郎は、血書誓約の17番目に「中岡光次為鎮」と署名。有力幹部に抜擢されました。龍馬は9番目に「坂本龍馬直陰」と血盟記載しています。足軽ら長曾我部一領具足の子孫末裔が大多数で、192名が盟約しました。

2-4勤王党参政を暗殺す

土佐藩参政吉田東洋が参勤交代に就いているときに、藩士が酒宴で旗本殴打事件を起こし罷免されました。土佐の郊外で、少林塾を開き、後藤象二郎や乾(板垣)退助、岩崎弥太郎など、若手藩士を育てます。その後、赦免された東洋は、参政となり法律書『海南政典』を定めると、開国貿易等や富国強兵など革新的な改革を遂行し、尊王攘夷派を唱える土佐勤王党を怒らせ政治的対立を起こしたのです。

翌年4月8日に高知城内で藩士山内豊範に進講し帰宅途中に、勤王党の那須信吾、大石団蔵、安岡嘉助の3人が天誅と称し東洋を暗殺します。道を拓くため反対勢力を排除したい、半平太の指示によるものでした。東洋の子正春はこの時11歳で、2年後に母も病死。孤児となるも、後藤象二郎が引き取り育てます。

3.公武合体派の台頭と脱藩

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東洋暗殺後は、保守的な門閥勢力や勤王党らが藩の政に携わります。龍馬は半平太の藩政を嫌い、脱藩しました。しかし、半平太と志が近かった慎太郎は、出立し江戸で他藩の尊攘派たちと親交を深め志士活動を展開します。しかし、幕政が激変し土佐にもその波が押し寄せ、慎太郎も脱藩しました。

3-1龍馬は脱藩。慎太郎は?

東洋暗殺は、勤王党にとって藩論を変える最後の手段。藩庁役職の交替がなされ、東洋派は退き、守旧派と勤王派の一部に一新されました。藩主山内容堂は江戸で東洋の訃報を聞き悲観します。半平太の土佐一般勤王の理想論を見限った、勤王党同志たちの脱藩が相次ぎ、龍馬も脱藩しました。

文久2(1862)年10月14日に結成された五十人組に、慎太郎は8人中6番目の伍長として出立します。11月16日の夕刻に山内豊信の警護のため、大雪が降る江戸に入りました。尊王攘夷運動に参加する中岡慎太郎は、長州の久坂玄瑞と親しくなりました。

久坂玄瑞や山県半蔵と共に信州松代に佐久間象山を訪ね、国防や政治改革について議論します。この訪問は、山内容堂からの密命で、松代藩で四面楚歌になっていた象山を、土佐へ招聘する目的だったのです。この招きに象山は、喜び心を動かすも、失敗に終わりました。藩外でも志士活動を展開し、江戸に入って以来石川清之助と名乗りますが、12月ごろから中岡慎太郎と改称し、翌年春に帰郷しました。

3-2尊攘派の受難

長州が京から追放される、「八月十八日の政変(京都政変)」が起こります。薩摩と会津が手を組み、議奏の三条実美と尊攘派の長州を陥れたのです。三条卿は、長州の久坂玄瑞や桂小五郎らに伴われ長州へ都落ちします。八月十八日の政変勃発の時、慎太郎は実家にいました。父に急遽高知城下に行くと偽り、かねに印鑑を用意させ、政変の実情を窺うため9月5日に単独長州へ向かいます。これが、実家や妻かねとの別れとなりました。

土佐でも藩論が公武合体に傾倒し、前藩主山内容堂は勤王党を弾圧します。身の危険を感じた慎太郎は「脱藩」し、間道を通り阿波国へ向かいました。実美の蜜使役宮部鼎蔵の案内役が、阿波藩邸に捕まったとの噂を聞いたからでした。9月19日に徳島城下を上手くすり抜け瀬戸内海を渡り、長州三田尻(現:山口県防府市)に到着します。

9月21日に慎太郎は実美らと謁見し、使者として土佐行きを決意。同日高知城下では、土佐勤王党大獄が起こり、半平太ら同志が投獄されたのです。勤王党大獄を知り、海路を使い三田尻へ亡命します。

4.長州藩の駒となる

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土佐を脱藩した慎太郎は、長州へ身を寄せます。亡命先の長州藩の一員となり、京で尊攘派運動を精力的に行ったのです。池田屋騒動や馬関(下関)戦争には参加していませんが、禁門の変には長州藩の一員として参加します。

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