5-4薩土盟約締結
6月20日に慎太郎が乾退助を西郷に紹介し、御花畑小松帯刀邸で薩土倒幕盟約議定を成立。同22日に三本木料亭で薩土両藩王政復古盟約議定が成立します。薩摩は、小松、大久保、西郷。土佐は、後藤、福岡、寺村左膳が出席しました。有志代表には、慎太郎と龍馬が陪席します。
武力討伐のこの同盟は戊辰戦争を引き起こしました。新政府軍の先鋒は、陸援隊が担っています。一方龍馬は、勝海舟らと大政奉還をさせ、江戸無血開城を計画していました。薩長同盟の先も、二人は別々の道を歩みます。
5-5龍馬と共に暗殺される
慶応3(1867)年11月15日の、大政奉還から1ヶ月後で王政復古大号令の1ヶ月前のこと。京都四条河原通りの醤油商近江屋の、2階奥の八畳間で龍馬と慎太郎は火鉢を挟んで、「三条制札事件」について話し込んでいます。誕生日の龍馬は、風邪気味でどてらを羽織っていました。そんな時、龍馬は峯吉を呼び、「軍鶏を、ちくと行って買うて来とうせ」といい、峯吉が飛び出します。
龍馬の世話役山田藤吉が上がってきたとき、階段から大きな音が聞こえたのです。龍馬が「こなくそ(ふざけんな静かにしろ!)」というと、十津川郷士(とつがわごうし)と名乗る者たちに襲撃されたのです。33歳の龍馬はその場で絶命。中岡も11ヶ所も斬られる重傷を負い翌々日の17日に29歳7ヶ月でこの世を去りました。
その一人が、伊予訛りの「こなくそ!」と叫んだとのことで、新選組の原田佐之助が疑われました。これは、慎太郎の聞き間違いで「こげなくそ」を聞き間違えたとされています。明治33年に近畿評論に真
犯人が掲載されました。見廻り組の今井信朗の談で、今井本人、佐々木唯三郎ら見廻り組の5人が殺したと自首したため、最有力説となっています。ここで遭難した、慎太郎、龍馬、藤吉は、京都霊山護国神社に埋葬されました。
尊王攘夷に生涯を賭け堅く世直しを誓った中岡慎太郎は、新しい日本を見ずに散った幕末志士
中岡慎太郎は、単純な攘夷では世直しは叶わないと、現実的な策を立て人々を説得しながら全国を回りました。将来を見据え現実味を帯びた確かな策と対話力があったからこそ、人々を動かすことができ、薩長同盟が成功したといえるでしょう。でも、慎太郎の存在は、幕末より軍事国家として文明開化建設期の明治に入ってからこそ必要だったといわれています。