幕末日本の歴史江戸時代

「小御所会議」とは?大政奉還や王政復古の大号令との関係は?わかりやすく解説

天皇中心の世の中を目指して「王政復古の大号令」

大政奉還をする際、徳川慶喜にはいろいろと考えがあったといわれています。

幕府に代わって新しい政治体制を整えるなら、その中に加わって勢力を伸ばすのも悪くない。慶喜にはそんな思いもあったようです。

実際、慶喜は容堂公に「大政奉還してもいいけど、その代わり新しい政府ができたら高い位をくれ」というような条件を出しています。

一方、肩透かしを食らった倒幕派。武力で幕府を倒すため、それまで敵対していた長州藩と手を組んでまで頑張ってきた薩摩藩の思いはいかばかりか。歯ぎしりが聞こえてきそうです。倒幕派の怒りの矛先は、自然と「徳川慶喜」に向けられるようになっていきます。

「徳川」を全て排除しなければ、新しい世の中を作ることはできない。薩摩も長州も、そう考えていました。

このまま粛々と新しい政治体制が築かれていったとしたら、そのトップにはおそらく、徳川慶喜が座るに違いありません。実際、慶喜にはそれだけの能力と魅力がありましたし、頭もキレる。これでは、また徳川政権が復活してしまう危険があります。

そこで倒幕派は、秘密裏に事を進めることにしました。「クーデター」を起こすことにしたのです。

慶応3年12月9日(1868年1月3日)、大政奉還から2か月ほど経過したある日のこと。いつもと変わらず政務が行われていた京都御所に、倒幕派の藩士たちが静かに集結します。

日中の政務が終わり、公家たちが帰った後、出入り口を厳重に固めて御所を封鎖。岩倉具視が速やかに中に入り、天皇のもと「新政府の樹立」を宣言。新しい政治体制として「三職(総裁、議定、参与)」と呼ばれる役職人事を申し渡し、ここに明治政府が発足します。

徳川慶喜抜きで、さっさと明治政府発足を宣言してしまう。これが、西郷隆盛たちが企てた政変クーデター「王政復古の大号令」です。

そしてそのあとすぐ、御所内の「小御所」と呼ばれる場所で、新しい政府の在り方について会議が行われます。これが「小御所会議」です。

徳川慶喜をどうするか?混迷を極める「小御所会議」

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「自分が幕府でなくなってしまえば、倒幕派に命を狙われることもないだろうし、明治政府の中で要職に就くのも悪くない」という、徳川慶喜の大博打に振り回された倒幕派の志士たち。そうさせてなるものか、と知恵を絞って繰り出した策が、王政復古の大号令であり、その直後に開かれた小御所会議だったのです。会議は思った以上に紛糾し、時間がかかったと言われています。小御所会議はどうなったのか、日本の行く末は?続きを見ていきましょう。

三職招集!「小御所会議」のメンバーとは

王政復古の大号令によって、明治政府の三職が決まりました。

小御所とは、御所内にある建物のひとつ。そこに主要メンバーが集結し、話し合いが始まります。

主要な参加メンバーはというと、まず明治天皇。まだ即位したばかりで、数えで16歳の若き天皇が、小御所会議の中心に。ただ、天皇は話し合いに加わるわけではなく、御簾の向こうに座っていて他のメンバーから姿は見えません。

総裁には皇族の有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)。軍人として明治天皇を支える立場にあり、明治政府の最高職にふさわしい人物でした。

議定には、皇族、公家、越前や土佐、薩摩などの藩主が数名。身分の高い人たちが勢ぞろいします。この中には、徳川慶喜に大政奉還を進めた山内容堂も含まれていました。

参与には、公家の岩倉具視や土佐藩士の後藤象二郎、薩摩藩士の西郷隆盛、大久保利通など、この会議に至るまでの間に走り回った面々が顔を揃えます。西郷隆盛は会議には参加せず、門の前で警備を固めていました。

慶喜の処遇は……なかなか進まない「小御所会議」

小御所会議の内容はどのようなものだったのでしょうか。

まず、山内容堂が、「なぜ徳川慶喜がこの場にいないのか、慶喜をこの場に呼ぶべきだ」と、会議の参加メンバーについて異議を唱えます。

しかし、ほかの参加メンバーから「大政奉還は信用できない」との声が。何かがおかしい。山内容堂はこの会議の本当の趣旨に気付き始めます。

「朝廷だけで日本の政治が行えないことは、歴史が物語っている。260年も政治を行ってきた徳川幕府をないがしろにするなど、徳川慶喜抜きで新政府について話し合うなど、あってはならないこと」と、山内容堂の発言にも熱がこもります。

そして容堂公の発言は頂点に。会議の参加メンバーを見渡して「あんたたちは、天子様(明治天皇)が幼いからといって好き勝手なことをして……」と言い放ちます。

これを制したのが岩倉具視でした。「天子様の御前で、その発言はあまりにも無礼。そもそもこの会議は、天子様のご意思によって召集されたものですぞ」と容堂公に釘を刺します。岩倉具視といえば一癖も二癖もある曲者。容堂公の暴言を待っていたのかもしれません。

「幕府の功績を認めていないわけではないが、勝手に日米修好通商条約を結んだり、諸藩の藩士たちの言論を弾圧したり、幕府のほうこそ好き勝手している。徳川慶喜は自分から進んで内大臣の官位を辞職して、自分の領地を朝廷に返上して誠意を示すべきだろう」

岩倉具視はそのような趣旨の発言をし、容堂公をはじめとする幕府擁護派をけん制。会議の主導権を握ります。

徳川慶喜は将軍でなくなったとしても、高い位を持ち、400万石を有する日本一の大大名です。完全に潰すためには、位も領地も取り上げてしまわなければなりません(辞官納地)。これこそが、岩倉具視や西郷隆盛たちの最大の目的だったのです。

「短刀一本あれば片付く」西郷隆盛の一言

そのことに気づいた山内容堂。冷静さを取り戻し、岩倉具視の巧みな戦術を交わして反論を続けます。

日本屈指の有識者が集まった小御所会議。幕府側のメンバーたちは山内容堂をはじめ雄弁者ぞろいで手強い手強い。でも、この会議を逃したら、徳川慶喜の排除は難しくなるでしょう。岩倉具視や大久保利通ら倒幕組も必死に粘ります。

話し合いは平行線のまま、6時間ほどが経過。なかなか結論が出ません。さすがに疲れが見えてきたところで、少し休憩を入れることになりました。

会議の出席者の一人が、外の守りを固めていた西郷隆盛に会議の様子を伝えようと、さりげなく場を離れます。

話を聞いた西郷隆盛は静かに、こんなことを言ったのだそうです。

「短刀一本あればカタが付くことだ。みんなにそう伝えてほしい」

西郷のこの一言で、岩倉具視はハタと我に返ったと伝わっています。

ここまで、倒幕に向けて並々ならぬ覚悟で走り続けてきた西郷隆盛。いざとなれば流血も辞さない。その覚悟があれば話を進めることができるはず。西郷の一言から、岩倉具視はそのことを悟ったのでしょう。

西郷の言葉は、会議の出席者たちの耳にも入りました。

それからは、休憩前のような激論にはならず、最終的に岩倉具視の案が採用されることとなります。

幕末の動乱へ……「小御所会議」のその後

小御所会議の決定は、徳川慶喜にとって大変厳しいものでした。

内大臣の辞職と、領地返納。

いつの間にそんな話し合いが?昨日大政奉還したばっかりなのに。もうびっくりです。

この上ない屈辱に、慶喜は悩みます。

倒幕派が過熱しているのと同じように、幕府擁護派もピリピリ状態が続いていました。

もはや自分ひとりの問題ではなくなっています。

辞官納地を受け入れても拒絶しても、旧幕府擁護派は納得しないでしょう。暴走して戦争を始めてしまうかもしれません。

現実に、小御所会議の後、強引に事を進めた岩倉具視らに非難が集まり、世論が旧幕府擁護に傾きかけるという現象も起こってしまいます。

山内容堂らは、何とか巻き返せないかあれこれと画策。

なかなか進展しない状況を見た西郷隆盛は、江戸の町に暴徒を放って混乱を引き起こし、旧幕府側を挑発するという奇策に出ます。西郷の思惑通り、幕府側は挑発に乗って薩摩藩邸を襲撃。攻撃された薩摩藩は、これで旧幕府と戦う大義を得ます。

もう戦争は避けられません。徳川慶喜は新政府との全面戦争を決意。幕府派の会津藩士らとともに兵を挙げ、翌年の鳥羽・伏見の戦いを経て、戊辰戦争へと発展していくことになるのです。

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