世界初の「株式会社」って本当?
オランダ東インド会社は「世界初の株式会社」と呼ばれています。
先ほども少し述べた通り、東インド会社設立より前から、オランダの大商人たちは自分で商社を作り、船を所有して東方に繰り出しては香辛料などを買い付けていました。
ポルトガル人やスペイン人にできてワシらにできんことはなかろう!とばかりに、オランダ人たちは奮闘します。
しかし貿易で利益を出すためには、みんなバラバラに商売しても埒があかない、ということで、国を挙げて協議。議会で「乱立する貿易商社を統合するべきでは?」という話が持ち上がります。いろいろ話し合っているうちに、1600年にイギリスが「イギリス東インド会社」を設立したとの噂が舞い込み、更なる不安がオランダ中に広まりました。
もう時間いっぱい、待ったなしです。
こうして、1602年3月、60以上あったといわれる貿易会社を一つに統一。「オランダ東インド会社」が誕生したのです。
でも、イギリスでも似たようなことを始めたのに、オランダ東インド会社が「世界初の株式会社」と呼ばれるのはなぜなのでしょう。
理由はオランダ東インド会社の経営形態を見ればわかります。
まず、会社の出資形態が「長期的・継続的」であったこと。それまでの貿易スタイルは、航海のたびに出資を募り、船が戻ってきたら清算してさよなら、という感じでしたが、オランダではその都度解散せず、継続して出資・配当を行うやり方にシフトしたのです。
また、株の譲渡や売買ができるようになったことや、万が一出資した船が戻ってこれなくなったとしても出資額以上の損失を被ることがなくなったこと(有限責任制)など、多くの人が出資しやすい体制も強化しました。
こうした試みが、オランダ東インド会社が「世界初の株式会社」と呼ばれる所以となっています。
どこを拠点にしてどんなものを扱っていたの?
我らがオランダ東インド会社は、どこでどのような品物を扱っていたのでしょうか。
まず活動を活発化させたのが、インドネシア周辺の海域でした。お目当ての商品はもちろん、香辛料が中心。ジャワ島、スラウェシ島などに拠点を置き、各地にオランダ商館を設置して勢力を強めていきます。
次に向かったのが東南アジア。タイでの活動を開始し、さらに日本の長崎(平戸)にも商館を設けて交易を始めたのは周知のとおりです。
ご存じの通り日本には、16世紀半ば頃からポルトガル人たちやってきていて、鉄砲や火薬などの貿易とキリスト教の布教活動が盛んに行われていました。しかしキリスト教に警戒を強めた豊臣秀吉がポルトガルの追い出しにかかり、江戸幕府が完全に鎖国体制に。この流れに乗じて、ビジネス色が強く布教活動などほとんどやらないオランダは、日本との貿易(対ヨーロッパ)を独占。有田焼など日本の陶器などをたくさんヨーロッパに持ち帰り、利益を上げたことは言うまでもありません。
オランダはさらに、中国との貿易も試みますが、これはうまくいかなかったようです。そこで目を付けたのが台湾。ここを占拠し、アジア圏でますます勢力を強めていきます。
さらにセイロン島(スリランカ)にも進出。ここでも香辛料、特にシナモンが目玉商品となっていました。セイロン島はポルトガルが支配していましたが、オランダは現地人たちと協力してポルトガルを追い払い、現地人たちは内陸に追いやって海岸部分を占拠します。
向かうところ敵なし。オランダの独壇場です。オランダ東インド会社は、世界各地で香辛料や特産品を手に入れ、大きな利益を得ていきました。
こちらの記事もおすすめ
日本の平和を築いた「鎖国」ー逆にどんなデメリットがあった?詳しく解説 – Rinto~凛と~
オランダ東インド会社はいつ頃衰退したの?
世界の海を駆け回り、大成功をおさめたオランダ東インド会社。
しかし、18世紀後半に入ると、その勢力は少しずつ衰退していきます。
理由はいくつか考えられますが、根底には「世界情勢の変化」という大きな要因が潜んでいました。
まず、ヨーロッパの人々が求める商品のタイプが変わっていったこと。当初、インドやアジア圏の香辛料は大変珍しかったので、ヨーロッパの人々がこぞって買い求めるため高値が付き、オランダ東インド会社も潤っていました。
しかし時代が移り、イギリス東インド会社が持ち帰る中国茶やインド綿などの人気が高まり、香辛料のほうは、以前ほどの盛り上がりを見せなくなっていきます。
また、オランダの国力の低下も、貿易に大きな影響を及ぼしていました。イギリスとの戦争や、フランス(ルイ14世)のオランダ侵略などが重なり、オランダ財政は逼迫していたのです。
さらに追い打ちをかけたのが18世紀末に起きたフランス革命。その余波はヨーロッパ全土に広まっていきます。
オランダも例外ではありません。1795年、ネーデルランド連邦共和国が傾き、フランス麾下のバタヴィア共和国が成立。オランダ東インド会社の経営はバタヴィア共和国に引き継がれていきますが、1799年、解散することとなります。
オランダ東インド会社の海外拠点はイギリスに持っていかれ、この後、海上の覇者の地位はイギリスへと移っていくことになるのです。
こちらの記事もおすすめ
世界を大きく変えたフランスのビッグウェーブ!フランス革命について解説 – Rinto~凛と~
グローバルビジネスの先駆け!世界を股にかけて邁進した「オランダ東インド会社」
image by iStockphoto
現在ではごく当たり前となっている「株式会社」ですが、400年も昔となると、ヨーロッパであっても、まだ誰も考えつかない斬新な発想だったのだと思います。1602年というと、日本では関ヶ原の戦いが終わって江戸時代が幕を開けようかという頃。日本全国の商人が一丸となってひとつの組織を作る、なんて、まず考えられなかったでしょう。日本で「株式会社」が誕生するのは幕末、あの坂本龍馬が中心となった「亀山社中」の誕生まで待つことになります。時代に乗るための苦肉の策だったとしても、決断して結果を残したオランダ人とオランダ東インド会社はすごい!「オランダはオランダ人が作った」ということわざにも感銘。「日本は日本人が作ったんだ」と胸を張って言える未来を築けたら……ふと、そんなことを考えてしまいました。