日本の輸送船団を攻撃するべくイギリス艦隊が出撃
真珠湾攻撃にありったけの艦隊を派遣していたとはいえ、日本側も戦力がなかったわけではありません。戦艦や空母を含む戦力はあったものの、その守備範囲が広すぎました。東はフィリピン、南はジャワ島までカバーしなければならず、ピンポイントでイギリス東洋艦隊へ向かわせるには無理があったのです。
12月8日、イギリス東洋艦隊はシンガポールを出港。日本の輸送船団を攻撃するべく北上を開始しました。翌日には日本の潜水艦がイギリス艦隊を発見しています。
これは危ないということで、夜の闇をうまく使って輸送船団を避難させた日本側は、翌日の決戦に備えることになったのでした。
ところが日本側はしっかり敵の動きを察知していたものの、イギリス艦隊にはまともな飛行機も潜水艦もなく、あると言えば偵察用の飛行機が数機あるだけでした。これがその後の勝敗の行方を左右することになるのです。
航空攻撃を発案
日本側は以前から、飛行機で敵艦を攻撃できないか?と模索していました。とはいえ真珠湾攻撃のように動かない敵艦を攻撃するならまだしも、イギリス艦隊は逃げるし攻撃もしてきます。果たしてうまくいくのかが焦点でした。
当時は「飛行機が敵艦を攻撃すれば、こちらは6割の損害を受ける」とされていたため、成功を危惧する声が多かったといいます。しかし艦隊同士で戦えば敗北は確実。ダメ元で航空攻撃に賭けるしかありませんでした。
こうして艦隊決戦よりも飛行機による敵艦隊攻撃へと方針が転換され、大急ぎで準備が進められることになったのです。
幸運なことに陸上基地には豊富な飛行機があり、100機を超す数が準備されました。とはいえ飛行機といってもゼロ戦のような単発機ではなく、一式陸攻(一式陸上攻撃機)などの双発機ばかり。図体が大きい上に鈍重で動きも鈍いため、簡単に撃墜されてしまうような代物だったのです。「一式ライター」と揶揄されるほど、被弾すれば簡単に火が付く機体は、まさに「空飛ぶ棺桶」でした。
それでもやるからには成功させねばなりません。搭乗員たちはそれぞれ遺書をしたため、出撃に備えました。
マレー沖海戦はじまる
不明 – U.S. Navy photo 80-G-413520, パブリック・ドメイン, リンクによる
こうして世界初の「飛行機VS戦艦」の戦いが始まります。日本側飛行機の多くが魚雷を積んでいたことも、勝負の行方を左右する結果となりました。
ついにイギリス東洋艦隊を発見
12月9日夕刻に味方の潜水艦がイギリス東洋艦隊を発見すると、さっそく43機の攻撃隊が基地を発進しました。ところが夜の闇に紛れて発見が難しく、味方の艦隊を敵と誤認するなど大混乱を極めたのです。やがて天候の悪化に伴ってあきらめざるを得ない状況に。
「やはり夜間攻撃は厳しいかも知れん。翌朝を期して再度攻撃を掛ける!」
航空隊司令官の松永少将はそう判断しました。
翌日、再び敵艦隊を発見するべく84機に及ぶ航空隊がマレー沖に派遣されました。敵を探し出すと同時に攻撃を加えるという【接敵攻撃】と呼ばれるものです。しかしせっかくの探索行動でしたが、またしても空振りに終わります。
しかし11時45分、ついに探索機のうち1機がイギリス東洋艦隊を発見しました。
「敵主力見ユ。北緯四度東経103度55分、針路60度へ向カフ。」
イギリス戦艦から発艦した偵察機を偶然にも日本側が発見し、その真下にイギリス東洋艦隊がいたのです。
巨大戦艦を仕留める航空隊
「敵艦隊発見」の報に日本軍司令部は沸き立ちます。さっそく手始めに33機の攻撃隊が差し向けられ、12時45分に攻撃が開始されました。
最初の第一撃で戦艦レパルスは爆弾を被弾し、大きく速度を落としました。また別の攻撃機は海面スレスレの高度から魚雷攻撃を加えていきます。
これを見たイギリス東洋艦隊司令長官フィリップス提督は、大いに驚きました。
「あんな図体の大きい飛行機が、こんな曲芸みたいな真似ができるのか…」
攻撃を受けた戦艦プリンス・オブ・ウェールズは、不幸にもスクリュー軸に魚雷が命中して破損。舵も効かなくなってしまいました。また浸水による電気系統の故障で、対空砲がまともに撃てなくなってしまい、徐々に沈黙していきます。
レパルスもまた多くの魚雷や爆弾を食らったあげく、多くの乗組員とともに14時3分に沈没。
残ったプリンス・オブ・ウェールズも執拗な魚雷攻撃を受け、ついに横転し転覆。14時50分にその姿を波間に消していきました。フィリップス提督も艦と運命を共にしたといいます。
この戦いで840名ものイギリス将兵が艦と海に沈み、意に反して日本側の損害は軽かったといいますね。まさに飛行機の威力を見せつけた戦いとなりました。
プリンス・オブ・ウェールズ沈没の衝撃
イギリスが誇る新鋭戦艦プリンス・オブ・ウェールズの沈没は、大きな衝撃を与えることになりました。もちろんこのニュースは日本で大々的に報道され、戦意高揚に役立ったといいますし、イギリス本国では悲痛なニュースとしてもたらされました。
イギリス公刊戦史はこう書いています。
「このニュースは日本で歓声をもって迎えられたことは当然だろう。 その飛行機は基地から650キロも離れた海上で2隻の主力艦を撃沈したのだから。 この事実は戦史上いまだかってない偉業であり、しかも日本側の損害はわずか3機に過ぎなかった。
2隻の巨艦の喪失はイギリス国民の士気を消沈させたと言えるだろう。マレーの人々も、一度艦隊が到着すれば万事うまくいくと信じていたので、ことさらショックは大きかった。」
またイギリス内務省も「これはダンケルク以来の悲劇だ」と断じていますね。
翌年2月、ついにシンガポールが陥落してイギリス軍は全面降伏しました。しかし作戦は日本の思惑通り進むものの、目論んだ早期講和は実現しませんでした。
やがて強大な軍事力と工業力を持ったアメリカの大反撃を受けることになるのです。
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