ちょっと雑学
スコットランドにはない魅力を持った英国国教会のシステムには、英国王ジェームズ1世は大喜びでした。なぜなら、国教会のリーダーは王様だったため、政治的にも宗教的にもリーダーとして存在でき、全てにおいて国を思い通りに動かせると考えたからです。
2.チャールズ1世への反発はブリテン諸島全土へ
不明 – Scanned from the book The National Portrait Gallery History of the Kings and Queens of England by David Williamson, ISBN 1855142287., パブリック・ドメイン, リンクによる
ジェームズ1世が逝去した後には、息子のチャールズ1世が継承しました。王政と議会が対立しているのに、父と同じ政治を行ったのです。こうなっては、議会は黙っていません。そんな議会を解散させたり招集したり、散々振り回したのです。さて、ピューリタン革命は、どのように始まったのか見てみましょう。
2-1ピューリタンを弾圧する新王
チャールズ1世は、議会の同意をえない外交や臨時の課税を強制した、むちゃくちゃな王でした。前王の息子は、やっぱり残念な王様だったのです。王権神授説を信奉する国王大権の姿勢を崩さないチャールズ1世に対し、1628年に我慢の限界と議会派のエリオットらは「権利の請願」を提出します。いったん受理するも、翌年にはいきなり議会を強制的に解散させました。反対派の議員9名を投獄し、更に11年間に渡って議会を開かない専制政治を断行したのです。エリオットは投獄から3年後に獄死しています。
国王を支えたのが、ウィリアム・ロードとトマス・ウェントワースでした。ロード=ウェントワース体制を築き、徹底政策を打ち出します。星室裁判所(政治関係)と高等宗務官裁判所(宗教関係)を思いのままに扱い、反対派の議員やピューリタンたちを弾圧したのです。ロードはスコットランドに大司教として赴任し、国教会を強制します。ウェントワースは、アイルランド総督となり更に厳しい支配者となったのです。
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2-2怒りが募るピューリタンたち
専制政治を進める上で財政難となったのです。緩和策として、関税の強化や騎士強制金の新設、独占権の濫発を繰り返します。1635年には、海港都市だけに限定されていた船舶税を英国全土に拡大しました。これには民衆も我慢の限界だったのです。
実はカトリック復活を目指したチャールズ1世は、1625年にカトリックの王妃アンリエッタ・マリアをフランスから迎え、カトリック政策も実施します。これらの政策により、ピューリタンたちへの弾圧が強化されました。
2-3スコットランドでの反乱
1625年に既にスコットランド王だったのに、チャールズの戴冠式は行われていませんでした。1633年に戴冠する国王に同行したのは、同年に国教会の最高聖職者カンタベリー大主教となったロードです。この時スコットランドでは、宗教改革がなされカルヴァン派の流れを汲んだ議会派長老教会体制を樹立していました。
チャールズ1世とロード大主教は、このようなスコットランドで、一般祈祷書を導入し、国教会を強制的に浸透させようとしたのです。政治の右腕ロードが赴任しチャールズの地元でもあったスコットランドが、英国国教会強制策に反発し反乱を起こします。英国で、王に反発するなら「議会を開かなくてもいい。税金なんてくそ食らえ!」と議会を解散したものの、手詰まり状態となってしまいます。
2-4地元スコットランドの反乱に大敗
チャールズ1世の悪政ぶりは、英国だけでなくスコットランドやアイルランドでも反発を強めていました。特にスコットランドの人々の信仰心は篤く重大事だったため、改宗は大変難しいものだったのです。国教会強制の断行は、猛反発を食らいます。1637年には首都のエディンバラで暴動が始まり、一般祈祷書は討ち捨てられました。実権を握ったピューリタンたちは、1639年に英国との戦争を企て、両者間にライバル心を生み出したのです。
地元スコットランドの反乱を急速に止めるための軍隊を集めたいと、チャールズが英国で行ったのは、短期議会の招集でした。だって反乱を鎮圧するには、お金が必要なんですもの。王様は「悪かった、反乱鎮圧のためにお金をだして~!」というも、王の勝手な言い分に議会は「ふざけんな~!」といった具合でした。11年ぶりに行われた議会は、「もう、いい」との王のブチ切れにより、1940年4月11日~5月5日までのたった3週間で終了しました。お金が集まらないと鎮圧はできません。スコットランドの反乱は、チャールズ1世の完敗でした。この反乱は、ピューリタン革命の発端になったのです。