4-2クロムウェルはまるで王様?
イギリス議会は、直接貿易のみを認める航海法を制定します。でも、中継貿易国のオランダは反発し、イギリス・オランダ戦争が勃発。戦争による増税、貿易の疎外を招き、市民からの評判は地に堕ちました。1653年4月にクロムウェルはクーデターにより長期議会を解散させ、「指名議会」を開きます。
12月には「指名議会」を解散し、自ら護国卿に就任しました。王様的存在になり最高リーダーとして独裁制を確立させ、1655年の反乱により「軍事独裁政治」を断行させたのです。チャールズ1世と似ていませんか?就任の翌年には、オランダと講和を結びます。
4-3共和制の崩壊
クロムウェルは敬虔なピューリタン。彼らは禁欲主義でまじめな人たちです。その厳格な主義を市民に強要します。娯楽を奪われるなど、ピューリタン的な厳しい生活は、市民たちにとっては地獄で不満の坩堝と化しました。イギリス史上最初で最後の共和制は、クロムウェルの死と共に事実上崩壊したというのが正解でしょう。一応、息子のリチャード・クロムウェルが護国卿を継いでいますが、退位させられています。
クロムウェルが亡くなった頃は、ピューリタンは不人気となっていたのです。国教会を崇拝するものが増え、こんなことなら王様がいた方がいいとの意見が続々登場します。そして、クロムウェルのスコットランド遠征軍に敗れフランスへ亡命していたチャールズ2世が呼び戻されステュアート朝が復活(王政復古)。フランスのルイ14世の影響を受けたチャールズ2世は、議会のいうことを効かない専制政治とカトリックの復活を宣言します。しかし、議会は認めず、チャールズ2世が亡命せざるをえなくなる名誉革命へと発展しました。
ピューリタン革命は、イギリスの伝統を知らない野放図な王に対する市民の怒りが爆発した結果
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「郷に入っては郷に従え」ということわざは、皆さんご存知でしょう。欧米圏には「When in Rome, do as the Romans do.(ローマに行ったらローマ人がする通りにしなさい)」ということわざもあります。この教訓を念頭において、新王が政治を行っていたらもしかしたらピューリタン革命は起らなかったのかも。でも、イギリスの立憲政治を確立させるには、ピューリタン革命という紆余曲折の歴史が必要だったのではないでしょうか?