イギリスヨーロッパの歴史

ピューリタン革命(清教徒革命)とは?英国で最初で最後の共和制を実現させたこの革命をわかりやすく解説

3. 起っちゃったピューリタン革命

After the Battle of Naseby in 1645.jpg
Sir John Gilbert – bridgemanartondemand.com, パブリック・ドメイン, リンクによる

ブリテン諸島全土に広まった反発心は、収まりがつかない状態でした。スコットランドだけでなくアイルランドでも反発が広がり、初期ステュアート朝に対する不信感は最高潮に達していたのです。1642~1649年までは狭義のピューリタン革命期といわれています。ここでは、1649年までのピューリタン革命を見てみましょう。

3-1長期議会を招集する

7月にもチャールズ1世は、スコットランドの反乱への報復による戦争を起こします。今回も反乱軍に負けたチャールズ1世は、賠償金を払わなくてはなりません。お金を集めるために王は、同年11月~1653年まで12年半も続く長期議会を招集したのです。この長期議会では、選出された庶民院議員約500名の議会派を中心に行われました。王の考えとは逆に、議会派は様々な改革を要求してきたのです。

専制政治の立役者、ウェントワースとロードは逮捕。ウェントワースは1641年5月に、ロードは1645年1月に処刑されます。王に対しては、1641年に専制政治を阻止。絶対王政の支配機構を打破するための法整備を行ったのです。そして、3年に一度議会の招集を定め、議会の同意なしに増税することも禁止しました。もちろん、ピューリタン弾圧機関となっていた、星室庁裁判所と高等宗務官裁判所は廃止。船舶税も不法性が宣言されました。これらは、「大抗議」という文章でチャールズ1世に提出されます。議会派は、ほぼ満場一致で可決しました。

1641年には、スコットランドでのチャールズ1世の影響力は払拭。英国より8ヶ月早い、1640年6月に3年議会法が成立します。そして、1643年9月に「厳粛な同盟と契約」において宗教の統合を主に、軍事的援助と引き換えに英国とアイルランドでも議会派長老教会体制が樹立されました。このことで、スコットランドは英国の従属国の立場を脱し、ライバル国としての地位を確立します。

3-2ピューリタン革命時の対立概要

ピューリタン革命は、「王党派VS議会派」の戦いです。「大抗議」文章にブチ切れた王は、長期議会での王の支持者を味方につけ、議会派と対立。これが、「ピューリタン革命」という名の内乱に発展したのです。

絶対王政と国教会を支持する「王党派(ロイヤリスト)」は、貴族やジェントリー、英国の北部と西部が中心でした。議会支持で王に対抗する「議会派」は、貴族やジェントリー、ロンドンや英国の東・南部が中心です。議会派の中には、立憲王政で長老制教会を主張するスコットランド人とロンドン商人を中心とした「長老派(ブレスビテリアン)」と王権を制限する共和制で産業と信仰の自由を主張する「独立派(インディベンデンツ)」、共和制と普通選挙と信仰の自由を主張する「平等派(レベラーズ)」と土地の共有と原始キリスト教を主張する「ディッガーズ」があります。

王とその同士たちの「王党派」。王はいてもいいけどルールの厳守をという「長老派」、王はいなくてもいいという共和制の「独立派と平等派」に分かれていたのです。

3-3ピューリタン革命の始まり

内乱(ピューリタン革命)は、1642年に始まります。当初は王党派が優勢でしたが、議会派独立派のジェントリー「オリバー・クロムウェル」が軍を改革し、彼が率いる騎兵隊が王党派軍に圧勝。次第に議会派勢力が優位に立ちます。1645年のネーズビーの戦いで、議会派が勝利しました。

負けたチャールズ1世は、再起を謀りスコットランドに亡命しますが、1647年に議会軍に引き渡されました。翌年王党軍が蜂起するも、議会派軍はことごとく勝利します。ここまで来ても王はまだ覇権を争う議会派各派の対立を利用し、策謀を続けたのです。最終的には独立派が議場で長老派の議員たちを武力で一掃し支配権をえます。

共和制の独立派の勝利により、王はいらないとなったのです。「チャールズ・スチュアートは暴君、反逆者、殺人者、国家に対する公敵として斬首(ざんしゅ)に処する。」との命がくだり、クロムウェルはチャールズ1世を1649年1月に公衆の面前で処刑しました。

4.イギリス初の共和制の確立と崩壊

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イギリス史上前代未聞の時代が訪れます。チャールズ1世の処刑を期に、王様のいない時代を迎えたのです。1694年3月に君主制と貴族院を廃止した議会は、共和制を宣言します。独立派は、念願の共和国の実現を果たしたのです。共和制宣言後のリーダーは、クロムウェルが担いますが…。共和制樹立後のイギリスとその混乱の様子を見てみましょう。

4-1クロムウェルの独裁政治

実は、チャールズ1世の処刑は、英国のみで決定、実行されました。自国の国王を勝手に処刑されたスコットランドは激怒し、皇太子のチャールズ2世を王に迎えるよう話を進めます。スコットランドとアイルランドは、英国と亀裂を深めました。

また、英国では勝者の独立派が、平等派の指導者を逮捕し、反乱を起こした兵たちも鎮圧し独裁体制を築きます。5月に正式な共和制を宣言しました。クロムウェルがリーダーとなり、王の悪政から解放されれば、幸せな日々が待っていると思っていた市民たちはガッカリしました。

クロムウェルは人気取りのために、1649年にアイルランドを征服しイギリス人不在地主へ土地を分配します。アイルランドの土地を勝手に奪って勝手に配ったのです。チャールズ2世を王に迎えたスコットランドも、翌年には征服。残存する王党派討伐を成し遂げました。要するに、クロムウェルは、武力にものをいわせる戦争中心の政治を行ったのです。

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