ヨーロッパの歴史

古代ヨーロッパを終わらせた「ゲルマン民族の大移動」その理由とは?わかりやすく解説

西ゴート王国

西ゴート族ドニエプル川(ロシアからウクライナを通って黒海へつづく川)両岸に居住していました。フン族の襲撃から逃げてバルカン半島の北部へと移動しますよ。そして傭兵として東ローマ帝国に雇われて定住しました。

5世紀の始めに東ローマ帝国で軍司令官に出世していた西ゴート族・指導者「アラリック1世」は、給金の不払いから東ローマ帝国から離反しますよ。ちょうどその頃に「西ローマ皇帝・ホノリウス」の暴政に苦しんでいた「非イタリア系住民」から、これ幸いとばかりに要請されてイタリア半島へと侵入を開始します。暴政をしていた皇帝はすっかり引きこもってしまって、418年には「ローマ帝国」と契約して西ローマ帝国への定住が認められたので、西ローマ帝国の中に「西ゴート王国」を成立させたのですね。

5世紀中ごろ、西ローマ帝国の実権は西ゴート族の指導者が握ります。ローマ帝国の名の下で王国の中心となる「ガリア」や「ヒスパニア」まで勢力を伸ばしましたが、フランク族との抗争で6世紀初頭にガリアは王国から外れますよ。そのために王国の中心はイベリア半島の「ヒスパニア」に移って支配が続きますが、711年にイスラム系の「ウマイヤ帝国」の攻撃を受けて滅亡しました。キリスト教に帰依していたために「ユダヤ人」を弾圧していたために、ウマイヤ帝国と結びつかれたというのが原因のようですね。

この西ゴート帝国が、現在のスペインの元となっていますよ。

東ゴート王国

東ゴート族は、フン族から襲撃された後にその支配下となりますよ。その後にフン族が衰退してきたので、その機に乗じて457年ごろ、東ローマ領地だった「パンノニア(現ハンガリー)」に移住しました。

東ローマ帝国の軍司令官と執政官を歴任していた、東ゴート族の王「テオドリック」は、東ローマ帝国皇帝「ゼノン」の要請を受けて北イタリアに侵攻376年に西ローマ帝国を滅ぼし、反乱によってイタリアを支配ていた「オドアケル」を討伐します。その功績で493年にローマ皇帝「アナスタシウス1世」よりイタリア王位が認められて「東ゴート王国」を建国。全イタリア・南フランス・旧ユーゴスラヴィアまで勢力を広げて、フランク王国とならぶゲルマン諸国の大国となったのですね。

特筆するのは、大多数を占めるローマ人の文化や芸術を認めて「ローマ法」を用いてローマ人に対しましたので「ローマ化したゲルマン王国」とも呼ばれていますよ。後にその文化は中世の「ゴシック式建築」や、現在使われている「ゴシック文字」も生まれました。ゴシックというのは「ゴート人風の」という意味だそうですね。これが「ゴシック美術」「ビザンティン美術」となっていくのですね。

東ゴート王国は、ローマ教会のカトリックとは違う「アリウス派キリスト教」を信仰していたためにイタリアを完全支配することばできなかったようで、526年のテオドリックの死後に衰退していきますよ。ちょうど地中海支配をもくろんでいた東ローマ帝国の帝「ユスティニアヌス1世」の派遣した軍団と20年にわたる「ゴート戦争」の末、555年に滅ぼされたのでした。しかし戦争によって土地は荒廃して枯竭し飢饉が続いたために東ローマ帝国は支配を続けることができず、イタリア支配を断念したのですよ。

ブルグンド王国

ジークフリートが主役の中世叙事詩『ニーベルンゲンの歌』で有名な国で、フランスワインで有名な「ブルゴーニュ」はブルグンド王国があったところで、それが語源となっているのですね。

411年ブルグント族の王「グンダハール」は、現在のドイツとポーランドの国境に流れる「オーデル川」からローマ帝国のガリアに侵入休戦協定の条件としてとしてローヌ川流域の土地を与られますよ。ローマ帝国の同盟者としての地位を得たのに、ローマ帝国領のガリア・ベルギカ北部地域を襲撃したのですね。ローマ帝国は、フン族の傭兵をつかって反撃します。この437年に一旦滅ぼされたのが、ニーベルンゲンの歌の元ネタなのですよ。

443年に西ローマ皇帝により再び同盟者の地位を与えられますよ。451年「カタラウヌムの戦い(タルーニャ平原の戦い)」では、同盟者としてローマ帝国と共にフン族と闘います。そして今度は内部から、西ローマ皇帝「グリケリウス」を擁立してローマ帝国の政治に介入してサヴォイア地方に王国を再建フランス東南部からスイスに及ぶ地域を支配いきますよ。しかし西ローマ皇帝位は廃絶されてしまい、534年に北から攻めてきたフランク王国によって滅ぼされたのでした。

フランク王国

フランクという名前から察することができると思いますが「フランス」の元となったところですね。ローマ人はライン川中流域に居住するゲルマン人(カマーウィー族・ブルクテリ族・カットゥアリー族・サリ族・アムシヴァリー族・トゥヴァンテース族)を一括して「フランク人」と呼んでいましたが、実はサリ族とリブアリ族という2つの勢力があり、それぞれ法典も作っていたといいますよ。

481年サリ族の「クローヴィス」がリブアリ族をはじめとした部族を統一し北ガリアに侵攻「フランク王国」を建設したのですね。フランク王国は、他のゲルマン人がアリウス派のキリスト教に帰依したのに、496年にクローヴィスはアタナシウス派に帰依して、ローマ=カトリック教会と関係を深めますよ。そのためにローマ教会との確執でイタリアを統一できなかった他の国と違って「怖い物なし!」状態で急速に勢いをつけていったのですね。534年にはブルグンド王国を滅ぼしてガリアを統一したのですよ。

 551年クローヴィスの死で、ゲルマン人の分割相続というせいで子や孫の間で王国は分割東北部(アウストラシア、中心都市はメッス)・中西部(ネウストリア、中心都市はパリ)・東部(ブルグンド、中心都市はオルレアン)の三分国が成立してしまいますよ。しかし南部(アクイタニア)は三分国の共同管理下になったのですね。

アウストラシアの宮宰(王族諸侯の宮廷職の首位)であったカロリング家の「ピピン2世」が、ネウストリアの地位も握ったことからはじまり、息子の「カール=マルテル」がフランク王国の全実権をもつことになりますよ。732年には「トゥール・ポワティエ間の戦い」で、イベリア半島に侵攻を続けていたイスラーム軍の騎馬隊を潰走ますよ。

カール=マルテルの息子の「小ピピン」が751年にフランク王国の王となり、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)の第2の都市・ラヴェンナをランゴバルド人に奪われて撤退したために、後ろ盾が欲しいローマ教会は神聖な王と王国として認めましたよ。その土地を小ピピンは奪い返してローマ教会に寄進したために、フランク王国はビザンツ帝国と対等以上の立場となったのですね。

小ピピンの息子が有名な「カール大帝」となります。ランゴバルド王国を滅ぼして800年にローマ教皇からローマ帝国皇帝に任命されたのですよ。西ヨーロッパ制覇ですね。制覇はしたもののイスラム系民族に海上封鎖されて貿易をすることができなくなり、次第に農耕生活へと移行していきますよ。これがヨーロッパにおける「封建社会」の始まりだったんですね。

しかしカール大帝の死後に再び分割相続のために、東フランク・西フランク・イタリアと分割されて、これが後のフランス・ドイツ・イタリアの起源となったのですよ。

アングロ・サクソンの王国

イギリスは、元々いた民族が鉄器を持って攻めてきた「ケルト人」に侵略された後に「アングロ人」「サクソン人」「ジュート人」が侵略してきたのですから、たまったものではなかったでしょうね。よく「アングロ・サクソン人」とひとくくりにされていますが、本当は別なのですよ。ゲルマン民族には違いないですが。

元々はアングロ人は「アンゲルン半島(ドイツのシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州の一部)」サクソン人は「北ドイツの低地」に住んでいたのですが、デーン人の侵攻によってジュート人と一緒に逃げローマ帝国がアイルランド人とサクソン人から攻められて撤退した「ブリテン島」のブルタニアに侵攻してきたのですね。それを先住民のケルト人(ブリテン人)の有名な「アーサー王」が撃退します。しかし7世紀にはアングロ・サクソン・ジュート人たちが7つの王国を建設していくのですよ。彼らの言葉が「英語」の元となったのですね。

土地を追い出されたケルト人はウェールズなどに移動したり、海を越えてフランスのブルゴーニュに移住しますよ。ブルゴーニュとはブリテン人のブルタニアのフランス語なのですね。そこで区別をするために、島の名前を「グレートブリテン」と呼ぶことになったそうですよ。ドイツ起源の民族ですが、ドイツでは今も残る人たちをアングロ・サクソン人とは呼ばないそうですね。「ザクセン人」と呼ばれていて20世紀まで「ザクセン王国」は存在していたそうですよ。スコットランド・アイルランドはゲルマン人には征服されずにすんで、ケルト系部族国家が続いていったのですよ。

1016年デンマーク王「カヌート」がイングランドを占領してイングランド・デンマーク・ノルウェーの「北海帝国」を築きましたが、死後帝国は分裂。サクソン人ウェセックス王家のエドワードがイングランド王となりますよ。その時に今でも国王の戴冠式が行われるウェストミンスター寺院 が作られたそうですね。

大航海時代になると、スペインの無敵艦隊を打ち破って世界中に植民地をもつ「大英帝国」を作りますよ。今でも植民地だった国が集まって「イギリス連邦」というものがあり、未だにイギリスの連邦王国として存在するカナダ・オーストラリア・ニュージーランドのような国もありますね。

ヴァイキング

「ヴァイキング」と聞いたら「海賊」とか、立食料理とか色々と思いつくかと思いますが、彼らもゲルマン民族ですよ。元はスカンディナヴィアおよびバルト海沿岸に原住した北方系ゲルマン民族の「ノルマン人」なのですね。その一派でデンマークのヴァイキングは「デーン人」ノルウェーのヴァイキングは「ノース人」と呼ばれていました。彼らは8世紀~9世紀にわたって侵攻を続けて各地で王国を作っていくのです。

〇フランス
フランス北西部のノルマンディー(コタンタン半島辺り)に「ノルマンディー公国」を建国。

〇イギリス
11世紀にイングランドに侵攻して、征服王朝「ノルマン朝」を建国(ノルマン・コンクエスト)。

〇イタリア
南イタリアに「シチリア王国(オートヴィル朝)」を建国(南イタリア征服)。

〇ロシア
「ルーシ・カガン国」「ノヴゴロド公国」「キエフ大公国」を建国。

〇スカンディナビア半島
8世紀から9世紀に「デンマーク」「スウェーデン」「ノルウェー」王国が建国。10世紀に「アイスランド」が成立。

アイスランドに進出したノルマン人の一部は「グリーンランド」「アメリカ大陸」へ行く者もいたのですね。一部の説には日本の「鬼」も姿形が似ていることからヴァイキングではないか?ともいわれていますよ。(角=ヴァイキングの帽子、毛皮のフンドシ=毛皮の服、赤い顔・青い顔=白人だから)

〇地中海
ローマ教皇の唱えた十字軍にも参加した中で、1099年に「アンティオキア公国」を建国。

〇東ローマ帝国
コンスタンティノポリス侵攻したり、中には東ローマ帝国へ赴いて傭兵となって、皇帝の親衛隊として活動した人も多いそうですよ。

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紫蘭