切腹を承諾した滝善三郎
滝善三郎を含めた日置隊の幹部たちは、外国公使団との折衝が始まった頃から謹慎していました。事件直近の記録からすると、発砲を命じた幹部が不明のため、誰かを人身御供にする必要があったのでしょう。フランス人水兵に槍をつけた滝善三郎に白羽の矢が立ったのです。
兄の源六郎や、同輩の者たちが善三郎の説得役に選ばれました。しかし源六郎が「国家の大事であり、諸外国の事情を受けて切腹するようにとの朝廷の命令なのだ。もし異存があるならば、私が聞こう。」と言うと。
すると善三郎は動揺の色も見せずに「朝廷の重いご指示、また殿の命令であればすぐにお請けしましょう。」と答えたといいます。
29日、岡山藩留守居役の澤井権次郎が「発砲号令之者」を記した書面を五代才助へ提出。善三郎を兵庫へ護送することになりました。また外国事務総督の伊達宗城もやって来ます。
なおも伊達と五代は、イギリス領事らに善三郎の助命を嘆願しますが、否定的な回答しか得られなかったようです。
滝善三郎の切腹
同29日、善三郎に対して正式な切腹の沙汰が下ります。善三郎の兵庫への護送は日置家が担当し、士卒や足軽20人らがこれに当たりました。
兵庫にある脇本陣、桝屋長兵衛宅に幽閉された善三郎は、そこで2日間過ごし、遺書をしたためました。
母上様、姉上様益御機嫌克被為成御座、恐悦至極奉存候、然者先般神戸ニ而異国人一件ニ付朝廷ヨリ御重大之蒙
勅命候、並、殿様ヨリモ御厚大ノ蒙仰、其上跡式悴成太郞へ重大ノ御禄被下置、旦那様ヨリモ御懇命ヲ蒙り、其上御禄頂戴被仰付、莫大ノ御義誠ニ吾家ノ面目不可過之候段、実ニ言語ニ難尽奉存候、猶此上御心ヲ御励被遊、成太郞御養育偏ニ奉願上候、将又同人義次第ニ成長ニ相成候ハヽ、唯々文武ノ両道ヲ御励セ被遊、忠孝ノ名天下ニ映候様、是偏ニ奉願上候、恐惶謹言引用元 「瀧善三郎神戸一件日置氏記録ノ写 遺書並辞世ノ歌写」(池田家文庫)より
<現代訳>
母上様、姉上様、ご機嫌いかがでしょうか。先般の神戸における異国人の一件につき、朝廷より重大な勅命を頂き、せがれの成太郎へ過分な家禄を頂戴するなど殿様や旦那様(日置忠尚)からもご厚恩を頂きました。
大きな恩義を頂き、過分過ぎる我が家の面目は言葉では言い表せません。どうかこの上は御心安く過ごして頂き、成太郎の養育をお願い致します。また順調に成長したならば、文武両道に勤しみ、忠孝の名誉を天下に知らしめる人物になれるよう、お願いする所存です。
3月2日、五代はなおも伊達に対して「善三郎の一命だけは助けたい」と具申しますが、伊達は「政府が決めたことを横から口を挟むことはしてはならない。これは西洋各国では通例なのだから。」と却下します。また伊達は、兵庫を警備していた長州藩士・薩摩藩士たちを前にして、今夜のうちに善三郎を切腹させること、その際の抜かりない警備を依頼していますね。この時に伊達は男泣きしたといいますね。
18時頃、桝屋長兵衛宅を出発した善三郎を載せた駕籠は、永福寺という寺へ向かいます。しかし寺へ着いたところ、なかなか外国側見分役や伊藤俊介らが現れません。なぜなら五代才助と伊藤俊介の両名は、なおも瀧の助命を外国公使団に要請したいたからです。
公使団は3時間にも及ぶ会議の末、助命嘆願を却下します。別室で控えていた伊藤と五代は、再び呼び戻され、執行する以外にないと告げられました。
全ての望みが絶たれた後、善三郎は見事に割腹を遂げました。
神戸事件のその後
善三郎の切腹後、外国側の要求通りに伊達宗城から各国公使に対する謝罪状が出されました。また日置忠尚には謹慎処分が下されます。
切腹した善三郎の遺骸は、兄の源六郎が荼毘に付して埋葬し、遺骨の一部を国元へ持ち帰ったそうです。
こうして神戸事件は一応の決着を見ましたが、その後も京都においてパークスが襲撃されたり、土佐藩士がフランス人水兵を殺傷した堺事件が起こるなど、不穏な世情が続きました。
しかし善三郎の死は無駄ではなかったことでしょう。この事件をきっかけとして、明治新政府こそが日本の正当な為政者だということが諸外国に認識され、戊辰戦争における諸外国の中立を約束させたわけです。
新政府の毅然さが明治維新を作り上げた
一見すると明治新政府は、外国公使団の言いなりになっただけのように思えますが、万国公法に準じて毅然とした態度を取ったあたりに、不退転の決意といったものを感じます。武士として生きてきたプライドを脱ぎ捨て、欧米列強に負けないほどの気概を持つこと。その思いこそが明治時代という転換期を支えていったのでしょう。