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明治新政府初の外交問題に発展した「神戸事件」とは?地元在住の筆者が解き明かす!

外国軍によって占領される神戸

日置隊が逃げ去った後、外国側は公使たちが協議の上で神戸市街地(居留地)の占拠に乗り出します。また居留地防衛のために日本人を通過させないような措置を施しました。

また事件当日の夕刻には、神戸沖に停泊していた越前、宇和島、筑前、肥後など各藩の蒸気船6隻が強引に拿捕され、外国軍の略奪に遭いました。

外国公使団は抗議文を作成し、各地へ配布・貼り出しを行いました。近隣の兵庫津だけでなく、遠く大坂などへも。

「日置隊士が、外国人を理由なく槍で突き、鉄砲で襲った理由を説明するように求め、各国公使が満足できるよう説明できなければ、我々に対し戦いを仕掛けていると判断する。そして我々が行動に出れば、岡山藩だけに限らず、日本国中すべての大災難になるだろう。」

この恫喝ともいえる抗議に、明治新政府は驚愕します。とはいえ武士の隊列を横切るという無礼な行為に関しては、横浜で起こった生麦事件が薩英戦争に発展したという例もあり、当時からタブーな行為だと認識されていたはずです。

それにもかかわらず、この種の強硬な姿勢を取るところに、いかに諸外国が明治新政府が軽く見ていたのかがよくわかります。

難航する外交交渉

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日本と諸外国を巻き込んだ騒擾に発展した神戸事件ですが、外国の要求を突っぱねるだけでは薩英戦争の二の舞になりかねません。いよいよ明治新政府初ともいえる外交交渉が始まります。しかし欧米列強との話し合いは一筋縄ではいかなかったのです。

対応に動き出す明治政府

ちょうどその頃、公家の正親町公董が「諸外国に王政復古を報ずる国書」東久世通禧(当時は外国事務総督)に付託し、神戸へ出立させようとしていました。東久世は好むと好まざるにかかわらず、神戸事件での最初の交渉者となるのです。

いっぽう日置忠尚は、岡山藩京都藩邸へ事件の顛末を報告。岡山藩主池田茂政も明治政府に対して事件の概要を上申しました。

2月8日に東久世ら勅使一行が神戸に到着。神戸運上所において会談が行われることになります。外国公使団のメンバーはフランス公使ロッシュ、イギリス公使パークスらでした。

この時の勅使たちの目的は、あくまで「王政復古を宣言した以上、外交権は明治新政府にあること。」を諸外国に認識させることでした。しかし会談の成り行きは、当然のように神戸事件へと議題が移ります。

外国側は「外国人にみだりに乱暴狼藉したことは新政府になってからのことであって、当然新政府が責任をもって処置するものなのか?」勅使側は「もちろんそうだ。」と答えました。

さらに「岡山藩の乱暴の件については、語るも怒りが増してくる状況だ。各国の公使に発砲した件など、とても文明国のそれとも思えない!」と、ますます圧力を掛けてきます。

その勢いに押された勅使側は、反論することすらかなわず「もちろんそうだ。」と答えるばかり。外国側の詰問に対して、完全に守勢に回ってしまったのです。武力を背景にした公使団に対し、海外のことを少し齧っている程度の公家や薩長の藩士相手では、まったく勝負にならないことは明らかでした。

会談後、長州藩士の一隊が周辺の警備を交代することによって、外国の軍隊による神戸の占拠はようやく解かれました。

明治新政府の方針定まる

翌9日、外国公使団は東久世に対して、神戸事件に関する要求書を提出します。

※明治新政府から書面で、各国公使へ十分詫びを入れ、今後このような暴行がないように請け合うこと。

※発砲するよう命令した士官を死刑にすること、ただし各国公使館所属士官の立合いのもとに処断すること。

松平春嶽の記録によれば、それを受けて12日、新政府の幹部である参与らが集まって議論しますが結論はなかなか出ません。深夜に至って、岩倉具視が参与一人ずつに問いただし、【万国公法】によって処理することが決まりました。いわば欧米が標榜する国際法に従うということで、明らかに外国側の主張を全面的に受け入れるということだったのです。

これは鳥羽伏見の戦いで勝利したとはいえ、依然として強大な軍事力を持つ旧幕府勢力を意識したものだといえるでしょう。外国側の要求を全面的に受け入れ、「朝廷や新政府が正当な為政者であること」を承認させることが第一義だとされたためですね。

翌朝になって明治天皇の裁可を得、そのことは東久世並びに岡山藩へも伝えられました。同時に当事者だった日置忠尚に禁足処分(自由に動けないようにすること)を課します。

事件の処理を急ぐ明治新政府

会議の後、外国事務総督の三条実美と伊達宗城から、神戸にいる東久世に「外国公使団の要求に沿う」と回答するように通知され、各国公使へ文書で通達されました。外国公使団は意外に早い回答に対して満足していたといいます。

また神戸在中の外国事務掛として、五代才助(友厚)伊藤俊介(博文)が任命されました。東久世が去った後、外国公使団と折衝するためです。

しかし事態はなかなか進捗しません。なぜなら事件当事者の処断を岡山藩へ命じなければならず、納得させる必要があったからですね。神戸にいた伊藤らも「早く事態を進捗してほしい」と各方面へ働きかけました。外国公使団が痺れを切らして激高しつつあったからです。

2月24日、新政府の岩倉具視は岡山藩並びに当事者を諭すための説諭書を通達します。簡単に言えば「国家のために死んでくれ」というものでした。

当の岡山藩は、当事者の処罰をなるべく軽いものにしようと奔走していましたが、事ここに至っては飲まざるを得ません。翌日、発砲命令を下した者への割腹申し付けと、日置の謹慎を命ずる2件の通達を受諾する上申が岡山藩から出されました。

滝善三郎の切腹と、その後

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諸外国からの圧力を受けた明治新政府は、ついに要求を受け入れて事件関係者の処罰へと舵を切りました。古い武士のプライドより「万国公法」という国際法の受諾を選んだのです。

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