「景教(ネストリウス派)」って何?ヨーロッパから中国に渡ったキリスト教の異端
「景教」になってからの歴史
聖母マリアの立ち位置で揉めにもめた挙げ句、東アジアまでたどり着いたキリスト教「景教」。景教とは「光の教え」という意味です。景教は一般には「ミシア教」とも呼ばれていました。メシア(ヘブライ語で救世主のこと。イエス・キリストの意)がなまったと思われる名前からも、この宗教がれっきとしたキリスト教の一教派だったことが伺えます。
ネストリウス派は「景教」として中国からモンゴルに至るまで広がりました。一説によると日本にもその思想は持ち込まれたとも言います。景教の寺院「大秦寺」が各地に建てられました。戦国時代の日本における「南蛮寺」のようなものですね。グローバル政策を推進していた唐でしたが、その王朝の末期になって方針を変えます。唐の王朝を伝統的中華王朝として位置づける運動の一貫で、右翼・保守勢力によりマニ教やゾロアスター教、仏教そして景教など外国分子や外国宗教が排除されたのです。武宗皇帝による、会昌の廃仏と呼ばれる一大宗教弾圧でした。
大秦寺の多くが焼き払われ破壊され、信者はモンゴルに逃れることに。遊牧民の間で景教は継がれました。モンゴル帝国で広く信仰されたことから、元代となった中国でいったん再び栄えます。しかしモンゴル帝国の崩壊に伴い、またも衰退。遊牧民の間で信仰されていた景教でしたが、その後は自然消滅という形で歴史から姿を消します。ネストリウス派はエフェソスで異端の審判を受けてから、なんと700年以上も存続したのです。
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「大秦景教流行中国碑」のドラマ
Nestorian monk Jingjing – http://eastasian.lib.umn.edu/exhibit.phtml, パブリック・ドメイン, リンクによる
歴史とは恐ろしいものです。永久に消え去ったと思われた景教の教えですが、なんとはるか後の1623年(1625年とも)に石碑という形で地中からあらわれます。これが『大秦景教流行中国碑』です。景教の教えや歴史などが書き記された重要文化財でした。この頃には大航海時代。ヨーロッパから船で西洋人がたくさん中国にもやってきていました。古の異端の教えが中国で見つかった!と当時大ニュースになったのです。
その石碑の存在自体がドラマティックである、大秦景教流行中国碑。とはいえこの石碑、管理は結構ずさんで偽造品説まであるほど。しかし遠いヨーロッパ世界から東アジアまで信仰を保った人びとが、キリスト教の教えを受け継ぎ続けたという証明として、現在も高い歴史的価値を誇っています。中国の西安碑林博物館で今も見ることができますよ。
最後に、日本と景教の関係について。景教が盛んだった頃、日本と唐は遣唐使という形でオフィシャルなお付き合いがありました。留学生として唐に渡った空海(弘法大師)は、長安の都で景教について学んだとも言われています。明治時代に来日したイギリス人のアジア研究家E・A・ゴードン夫人は、空海が開祖となった真言宗は景教の影響を受けたに違いない!と確信。なんと本場中国の『大秦景教流行中国碑』のレプリカを建立してしまいました。しかもそれを真言宗の総本山・高野山にプレゼントしたのです。今も高野山でレプリカを見ることはできるんですよ。
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景教(ネストリウス派)、グローバルすぎる歴史!
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景教(ネストリウス派)の歴史をたどると、その根性と度胸に驚きます。「すべての人に福音を述べ伝えよ」というキリストの言葉により、布教が至上命令であるキリスト教。たとえ異端とされようと人を救う教えであったことは変わりなかったから、ずっと伝道され、はるか東の国で何百年も生きながらえたのかもしれません。歴史って、ロマンですね。