南都焼討と清盛の死
各地で反平氏勢力が挙兵すると、京都周辺地域でも反平氏活動が活発化しました。露骨な反発を見せたのが園城寺と興福寺です。清盛は平重衡に命じて平氏に反抗的な態度を示し続ける園城寺や興福寺の攻撃を命じました。
重衡は最初に園城寺を攻撃し焼き払いました。次いで重衡軍は奈良の興福寺に矛先を向けます。興福寺は僧兵7,000余を動員して守りを固めました。しかし、重衡軍はそれを上回る兵力を動員し、興福寺の防衛戦を突破。攻撃された興福寺や奈良の市街地は炎上します(南都焼討)。
1181年閏2月、平氏の総帥である清盛が病に倒れました。死期が近いことを悟った清盛は宗盛を後継者に指名します。亡くなる直前、清盛は「頼朝の首を我が墓前に供えよ」と言い残したといいますから、頼朝に対する怨念が強かったのでしょうね。
平氏の都落ちと義仲入京
清盛の死後、源平の争いは一時中断します。その理由は養和の大飢饉が起きたからでした。『方丈記』には養和の大飢饉で京都だけで42,300人の死者が出たと記されます。そのため、戦いは膠着状態となりました。
戦局が動くのは飢饉の影響が少しおさまった1183年のこと。北陸方面で勢力を拡大した源義仲が越中国俱利伽羅峠で平氏軍と戦いました。倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を打ち破った源義仲は勢いに乗って京都に迫ります。
義仲軍の勢いに、京都を守り切るのは困難だと判断した平宗盛は、三種の神器を持ち出し、安徳天皇を連れて西国へと落ち延びました(平氏の都落ち)。
1183年7月、源義仲は京都に入ります。安徳天皇が平氏に連れ去られたため、京都では代わりの天皇をたてることになりました。ところが、次の天皇をだれにするかをめぐって義仲と後白河法皇が対立。しかも、京都市中で義仲軍が略奪を行ったこともあって後白河法皇は義仲の排除を画策しました。
寿永二年十月宣旨と頼朝の東国支配
義仲の横暴に頭を痛めた後白河法皇は源頼朝に接近します。頼朝は、富士川の合戦で勝利した後、性急な上洛を行わず関東の支配確立に専念していました。後白河法皇は頼朝と手を組むことで義仲を京都から追い払おうと考えます。
後白河法皇が困ったもう一つのことは、乱の影響で全国から年貢を集めることができなくなっていたことでした。この二つを解決するため、後白河法皇は頼朝に寿永二年十月宣旨を下します。
この宣旨で、頼朝は東国の支配権を認められました。その代わり、東国の荘園や公領から上がる年貢を京都に納めることを約束します。また、宣旨と同時に頼朝はかつて受けていた朝敵としての指定を取り消され、元の官職に復帰しました。
源義仲の追討
後白河法皇が、自分の知らないところで頼朝と取引していることを知った源義仲は急遽、平氏との合戦を切り上げて京都に帰還します。義仲は直ちに後白河法皇の屋敷を襲撃。後白河法皇を幽閉しました。義仲は後白河法皇に迫り、自らを征夷大将軍に任命させ頼朝討伐の宣旨を出させます。
一方頼朝は、弟の源範頼・源義経に兵を預けて上洛させました。1184年1月、源義仲軍と源範頼・義経軍が宇治川で決戦に及びます。このころ、義仲軍は相次ぐ戦いや直前の平氏との戦闘(水島の戦い)での敗北により、千余騎まで兵力を減らしていました。
義仲は宇治川に最終防衛線を引いて関東勢を迎え撃ちます。しかし、数万を超える関東勢の前に義仲軍は敗北。義仲自身も近江粟津で戦死しました。
源義経の活躍で一の谷・屋島で勝利
同じころ、西国では平氏が勢力を回復させつつありました。水島の戦いで源義仲軍を打ち破ったことで、平氏は摂津福原まで勢力を拡大させます。京都にいた範頼・義経軍は、平氏が持つ三種の神器を奪還するため、平氏が拠点を置いた一の谷に向けて進軍しました。
一の谷に向かった源氏軍は、主力を率いる範頼軍が平氏と正面から向き合う一方、別動隊を率いる義経が一の谷の背後から平氏軍を奇襲します。義経率いる別動隊が、仁の背後の断崖絶壁を駆け下りてきたため、不意を突かれた平氏軍は敗走しました(一の谷の戦い)。
一の谷で敗れた平氏は、四国の屋島に陣を敷き体制の立て直しを図ります。源氏の主力を率いる範頼は山陽道制圧を図りますが、平氏水軍の活動で兵粮不足に陥りました。義経は平氏の本拠地となっている讃岐国屋島を奇襲攻撃。平氏軍を西へと追い払います(屋島の戦い)。
壇の浦の戦い
屋島の戦いに敗れ、瀬戸内海での制海権を失った平氏は関門海峡の彦島に本拠地を移します。屋島の戦いの勝利で補給線を確保した源範頼軍は九州に上陸。九州の平氏勢力に勝利して、平氏を彦島のある壇ノ浦に孤立させました。
1185年3月、義経は水軍を率いて平氏最後の拠点である彦島に迫ります。平氏は残存勢力を結集させて義経軍との決戦に臨みました。序盤、主導権を握ったのは平氏です。関門海峡周辺の潮流を熟知する平氏水軍は、勢いに乗って義経を討ち取ろうと押し寄せました。
しかし、潮の流れが変わり、義経の背中を押すような流れとなると義経は一気に反撃に転じます。義経軍が優勢となり、平氏軍は徐々に討ち取られていきました。
勝敗がほぼ決したころ、敗北を覚悟した平氏の女性たちが次々と海に身を投げます。清盛の妻の二位尼は幼い安徳天皇を抱き寄せ、宝剣と神璽を抱えると安徳天皇とともに海中に身を投げました。平氏の有力者も次々と海に身を投げ、治承・寿永の乱は終結します。
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