その他の国の歴史アフリカ

多くのアフリカ諸国が独立を果たした「アフリカの年」を元予備校講師がわかりやすく解説

第三世界の台頭

第二次世界大戦後、アメリカを中心とする西側諸国と、ソ連を中心とする東側諸国の対立(冷戦)がはじまりました。第二次世界大戦後に独立したアジア・アフリカ諸国は、東西両陣営のどちらにも属さない「第三世界」として注目を浴びるようになります。

第三世界の考え方を強調したのはインドのネルーでした。ネルーらは1954年のコロンボ会議や、翌年のバンドン会議アジア・アフリカ会議)で、植民地主義への反対や反侵略戦争といった理念を提唱し、第三世界を一つの勢力としてまとめようとします。

バンドン会議では、平和十原則が発表されました。平和十原則では国際連合憲章の尊重や主権・領土の尊重、内政不干渉、相互協力の促進などが確認されます。アジアやアフリカの諸国が立場の違いを越えて団結する姿勢を見せたことで、アフリカ諸国の独立運動がさらに活発化しました。

ガーナ独立を達成したエンクルマ

アフリカの年に先立つ1950年代後半、イギリス植民地のゴールドコーストで独立運動が起きました。運動の指導者はエンクルマ。1955年のアジア・アフリカ会議にも参加していたアフリカ独立の旗手です。

エンクルマは、アメリカやイギリスに留学した地域社会のエリート。エンクルマは留学から帰国すると、ゴールドコースト会議人民党(CPPを立ち上げ、イギリスに対して即時独立を要求しました。

エンクルマは、ガンディーがインドで行った非暴力・不服従運動をゴールドコースト植民地で展開。イギリスに総選挙実施を約束させます。1951年の総選挙で、逮捕されていたエンクルマは獄中から出馬し当選を果たしました。

1957年、イギリスはゴールドコースト植民地の独立を承認。ガーナ共和国が誕生します。独立後、エンクルマは首相や大統領に就任。1958年には第一回アフリカ独立諸国会議を開催して、いまだ植民地であるアフリカ諸国の独立支援を約束しました。

アフリカの年

第二次世界大戦後、イギリスやフランスの支配力が衰えたことがきっかけとなり、徐々にアフリカ諸国の独立が始まります。大戦以前の独立国であるエチオピア、リベリア、エジプトに加え、1950年代にリビア、スーダン、モロッコ、チュニジア、ガーナ、ギニアが独立しました。

1960年、西アフリカから中央アフリカにかけての17の国が一気に独立を果たします。この年を「アフリカの年」といいました。西アフリカから中央アフリカを植民地としていたのはフランスです。どうして、フランスは植民地を承認したのでしょうか。

その背景には1954年から続くアルジェリア戦争があります。アルジェリアは1830年からフランスの植民地で、多数のフランス系移民(コロン)が居住していました。アルジェリア人たちはフランス軍やフランス系住民と激しく交戦します。

1958年にフランス大統領となったシャルル=ド=ゴールはフランス系住民の反発を押し切って、アルジェリア独立を承認しました。フランスは、植民地を維持する力を失っていたのです。

アフリカ独立後の問題点

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1960年以降、アフリカ諸国で独立が相次ぎました。本国から政治的に独立を果たしても、アフリカ諸国は多くの問題点を抱えています。植民地時代に現地の部族を無視して引かれた国境線をめぐる紛争やコンゴ動乱に代表される内乱がアフリカの人々を苦しめました。また、欧米諸国が経済的に旧植民地を支配する新植民地主義も問題。さらに、独裁政権や南北問題、南南問題などの経済的な問題も山積しています。

コンゴ動乱に代表される独立後の内乱

1960年以後、アフリカでは次々と独立国が誕生しました。しかし、アフリカ諸国の国境線がイギリスやフランスなどの旧宗主国によって強引にひかれたものだったため、国家間、あるいは国家内で対立が起き、アフリカ諸国を不安定化させます。これに、東西冷戦がからむとコンゴ動乱のように泥沼化していきました。

コンゴ動乱は旧ベルギー植民地の今後で起きた内戦のこと。ベルギーが植民地から撤退した後、コンゴの政権を率いたルムンバ首相はソ連に支援を要請します。これに危機感を覚えたアメリカはルムンバと対立していたモブツを支援。モブツ派はルムンバを拘束し殺害します。

政権を握ったモブツはクーデタで軍事政権を樹立。国名をザイールに変更しました。コンゴ動乱のような内紛や外国の介入は、アフリカでは見慣れた光景となっていきます。

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