室町時代の武家法「建武式目」
建武式目(けんむしきもく)とは、室町時代(南北朝時代)、1336年(建武3年)に足利尊氏によって制定された基本法です。
条文は17か条。幕府を暫定的に京都に置くことを明記したうえで、武士たるもの、人の手本になるような人格を持ち、質素倹約に努め、不正があってはならない、というようなことが書かれています。
建武式目が制定される少し前の時代は、鎌倉幕府末期。もともと権力が弱まっていたところに、二度に及ぶ元寇、農作物の不作・飢饉が続くなど有事が重なって、幕府の力は落ちるところまで落ちていました。
そんな時、西のほうで「鎌倉幕府を潰して朝廷中心の世の中を取り戻したい」と暗躍する後醍醐天皇の姿が。鎌倉幕府に不満を持つ連中を焚きつけて倒幕に成功すると、「建武の新政」と呼ばれる新しい政治体制を打ち立てます。
しかし後醍醐天皇の「建武の新政」は、考え方が新しすぎたのか、首をかしげる者も少なくありませんでした。
そのうちの一人が足利尊氏。後醍醐天皇とゴタゴタしながらも、光明天皇を擁立し、征夷大将軍に任命されて室町幕府を開きます。
この時に打ち立てたのが「建武式目」でした。
建武式目は、御成敗式目のような「公正な裁判をするための指針」というより「室町幕府のための基本法」であると言えます。内容は御成敗式目をお手本にしていると言われていますが、制定の目的から考えると、「武家諸法度」に近いと考えてよいかもしれません。
条文を17条にしたのは、聖徳太子の17条憲法をリスペクトしたものだろうと考えられています。
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目的や内容に違いはありますが、「御成敗式目」も「建武式目」「武家諸法度」も、武士のための法律です。
鎌倉幕府から室町幕府へ、戦国時代から徳川幕府へ、時代が変われば、求められる法律も変わってきます。
では、武家諸法度はいつ頃まで残っていたのでしょうか。
ご存じの通り、江戸末期、19世紀半ばごろに入ると、日本に大きな変革期が訪れます。
十三代・徳川家定のときに、海の向こうから「黒船」が襲来。ペリーが来航し圧倒的な力を見せつけて開国をせまります。
もう、諸大名に対してあれこれ禁止している場合ではありません。
そして十五代・徳川慶喜のときに大政奉還され、徳川幕府は終幕。武士の時代は終わりを告げます。
新しく誕生した明治政府によって、近代日本に求められる様々な法律が作られ、武家諸法度は静かにその役割を終えることとなるのです。
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