日本の歴史江戸時代

江戸幕府が作った武家の法律「武家諸法度」とは?内容をわかりやすく解説

その後も追加・改訂が続けられ幕末まで継続

家光の寛永令によって、より厳しく、具体的なものとなった武家諸法度。

江戸時代の大名たちは、この基本法に縛られ、幕府に支配されていくことになります。

その後も幾度となく、武家諸法度は改訂が続けられていきました。

改訂の理由は様々ですが、武家諸法度は基本的に「法律」なので、時代の流れや世相に合わせて手を加えていく必要があったものと思われます。

まず、寛文令(1663年・寛文3年)。四代将軍・徳川家綱のときに発布されたもので、条文の数が21か条に増えています。内容はほぼ、寛永令と変わりませんが、キリスト教禁止に関する文言と、不孝者の処罰規定が追加されました。

次に五代将軍・徳川綱吉の時代にも、武家諸法度の改訂が行われています。1683年(天和3年)に発布されたので、天和令と呼ばれていますが、内容が大幅に見直され、条文は少し減って15か条になりました。

ここまで、厳しい武家諸法度に違反した大名が処断され、その結果、家臣たちが失業。浪人が増えて治安が悪化……という事態が続いていたため、こうした時代背景を受けて、主君の後を追って命を絶つことを禁じる一文を加えたり、養子に関する条文を加えたりと、内容の見直しを行っていきます。

さらに1710年(宝永7年)、六代将軍・徳川家宣のときにも、より具体的な書き方にした改訂を施行。宝永令では、ブレインとして新井白石(あらいはくせき)が活躍しました。

武家諸法度最後のテコ入れは、八代将軍・徳川吉宗のとき。1717年(享保2年)の改訂は享保令と呼ばれ、宝永令から天和令への差し戻しが行われています。

武士のための法律の歴史「武家諸法度」までの道のりとは

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武家諸法度は、徳川幕府安泰のために設けられた法律ですが、それ以前にも、武士のための法律は何度か作られていました。代表的なものとして、鎌倉時代の「御成敗式目」と、室町時代の「建武式目」があります。武士の時代の幕開けから戦国の世へ、武家社会を統率するための法律とはどのようなものだったのでしょうか。武家諸法度との違いも含め、概要を見ていきたいと思います。

鎌倉時代の武家法「御成敗式目」

御成敗式目(ごせいばいしきもく)は鎌倉時代、1232年(貞永元年)に制定された基本法です。

51条の条文からできており、時の執権・北条泰時が編纂を命じたものと言われています。

制定の少し前、承久の乱という大きな戦がありました。朝廷(後鳥羽上皇)と鎌倉幕府(北条)の戦いです。この戦いで、鎌倉幕府は見事勝利。当時は、武士が朝廷に勝つなんて、あり得ないことでした。

承久の乱に勝利した鎌倉幕府は、後鳥羽上皇の一派から土地や財産を没収します。急にたくさんの土地を管理しなければならなくなった鎌倉幕府。その土地土地を管理するための役人(地頭)を派遣し、年貢の徴収などを任せます。

ところが、地方に散らばった地頭たちの中には、欲をかいたり地主ともめたりしてトラブルになる者も多かったようです。

地頭とは、もともとは武士。御家人と呼ばれる、鎌倉幕府に仕える者たちです。でも、いくら鎌倉幕府でも、あからさまに地頭びいきをするわけにもいきません。各地で働く地頭たちを守るためには、公平な裁判を行うことができる法律が必要だったのです。それまでも、こうした法律はたくさん作られていましたが、どれも公家のためのもので、武士のための法律はまだありませんでした。

そこで制定されたのが「御成敗式目」。

御成敗式目とは、時代の転換期に、武士たちを守る(公平に裁く)ために設けられた基本法だったのです。

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