自由民主党ってどんな政党?主義や歴史をわかりやすく解説
55年体制の崩壊
中曾根康弘のあとを受けて自民党の総裁となったのが竹下登でした。竹下内閣は消費税法案を含む税制改革関連六法案を提出し消費税3パーセントを導入。しかしこれが国民の反感を買ってしまうことになります。さらには未公開株が政界の有力者に渡される収賄事件であるリクルート事件が起こってしまったことで竹下内閣は辞任。自民党はここから苦境に立たされていくことになります。
次に総裁となった宇野宗佑は総理になった途端女性スキャンダルによって辞任。さらにはこの時の参議院選挙で土井たか子率いる社会党が大躍進するマドンナ旋風が巻き起こることになり、自民党と社会党の立場が逆転し始めることになります。
次に総裁になった海部俊樹も小選挙区を導入する政治改革を行おうとしましたが失敗し辞任。次の宮澤内閣ではPKO法案や金丸信の東京佐川急便事件によって国民の政治不信は増大。自民党内での離反者も続出し宮澤内閣は内閣不信任案が可決したことによって国会が解散。その後の衆議院選挙で自民党と社会党が惨敗したことによって55年体制は崩壊することになります。その後、日本新党の細川護熙を総理とする非自民の連立政権が成立。自民党は1955年の結党以来初めて野党に転落することになり、自民党の長期連続政権に終止符が打たれたのでした。
不安定な政局
こうしてついに野党にまで転落することになった自民党。自民党では野党に転落したことを受けて次々と脱党する人が続出。連立政権に入ろうとする人たちが現れていくようになり昔みたいに自民党一強みたいな流れは起きなくなってしまいました。
さらには細川内閣がこれまでの中選挙区制から小選挙区比例代表並立制に変更する政治改革関連法案が成立。これによってさらに自民党が優位に立つ選挙ではなくなったこととなり自民党は苦戦を強いられる可能性が高くなってしまいました。
しかし、連立政権でありそれぞれの党の意見をまとめなければならないという性質上政権が長続きすることはありませんでした。細川内閣が倒れて新生党の羽田孜が総理となりましたがわずか2ヶ月強で辞任。連立政権与党の間でゴタゴタが起こるようになったのです。
そこで自民党は本来であれば的であるはずの社会党トップである村山富市委員長を首相に推薦。まさしく奇策中の奇策で1994年に自民党が連立政権としてではありますが与党に返り咲くことになりました。
その後社会党のピークダウンや新党ブームの落ち着きによって1996年の総選挙では239議席と全盛期とはいかないまでも立て直しに成功。橋本龍太郎内閣が誕生することになりました。
一方で野党側は新進党や民主党が結成しましたが、ゴタゴタがあってか自民党に流れてくる人が続出。総選挙が起きていないのに過半数を超える事態となりました。
しかし、橋本龍内閣における行政改革の停滞や経済政策における失敗によって参議院選挙で過半数割れ。この責任をとって橋本内閣は総辞職することになりました。
後を継いだのは『平成おじさん』で知られている小渕恵三。小渕恵三は公明党と自由党との連立内閣を組織して自自公連立政権を樹立。のちに自由党が離脱することになるのですが、この時期から公明党との本格的な選挙協力関係が始まりました。
小渕恵三が病に倒れて森喜朗が跡を継ぎましたが、森喜朗の『神の国発言』や不祥事などによって支持率は9%と激減。結局辞任に追い込まれてしまい、後に小泉内閣が誕生することになります。
小泉内閣による構造改革
森喜朗の後を継いだ小泉純一郎はその決断力ある行動や印象ある発言によって国民の支持を大きく受けることになります。現在でも息子の進次郎が頑張っていますが、父の人気はその比ではなく、国民の支持を示す内閣支持率はなんと戦後最大の87.1%。参議院選挙でも過半数を回復する勢いを見せていき、いわゆる『小泉旋風』を巻き起こしました。
小泉内閣はその人気を背景にして多方面において改革を行ていくことに。特に聖域なき構造改革と呼ばれるこれまでの官僚政治の一新は小泉内閣の最大の実績となり、特に国が管理していた郵政事業を民営化する動きには賛否両論となります。この郵政民営化は参議院で否決されましたが、これを衆議院解散という手を使い強引に採決。この時行われた衆議院選挙は自民党だけで296議席を獲得という歴史的圧勝をおさめ、小泉内閣は郵政を民営化する目標を達成し2006年に辞任したのでした。
相次ぐ内閣交代
小泉内閣も落ち着きを見せ始めた2006年。この時にポスト小泉や小泉チルドレンと呼ばれる議員たちが台頭していくようになります。特に
麻生太郎・谷垣禎一・福田康夫・安倍晋三の4人はポスト小泉の最有力候補とされており、この4人はそれぞれ自民党の総裁を務めることに。この自民党のキーとなる人物は後にそれぞれの頭文字をとって「麻垣康三」と呼ばれるようになります。
小泉純一郎が総裁を辞任するとそのあと自民党幹事長を歴任した安倍晋太郎の息子であり、2020年現在首相でもある安倍晋三が就任。
しかし、年金記録問題や閣僚のスキャンダルもあって、自民党は参議院で惨敗。ここからしばらくの間衆議院と参議院で与党となる党が違うねじれ国会となっていくようになります。
ねじれ国会は『政策が全然通りにくい』という致命的な欠点があり、ねじれ国会に突入した結果国の改革は大きく頓挫。実行のスピードも著しく低下してしまい首相は一年おきに福田康夫、麻生太郎とコロコロと変わってしまうことに。
さらには2008年にリーマンショックが到来。日本でも日経平均株価が過去最低となる6,994円90銭を記録。日本の経済はどん底に落ちてしまい、その失敗の責任を内閣と自民党が請け負うこととなります。もはや自民党に政権を任せることはできないと感じた国民。その動きの現れは2009年の衆議院選挙で見られるようになりなんと自民党はは119議席しか確保できない大惨敗を喫してしまい政権の座を民主党に明け渡すことに。自民党が衆議院にて議席数第1党を失うことは自民党が結党してから初めてのことであり、自民党はこれによって二度目の野党転落となってしまうのでした。
これからの課題
野党に陥落した自民党でしたが、民主党が次々と失政を行なってしまったために2012年に自民党は再び与党に返り咲くことになります。
その後現在に至るまで安倍晋三が首相を務めており、自民党は安倍晋三の指揮のもとで動いているというのが現在の状態です。
しかし、2012年から現在に至るまで首相にいるためたのかやはり腐敗も起こってしまうこともしばしば。桜を見る会などの問題が明るみになっていく中で自民党は対応に追われています。
与党である自民党はこれからの動静をどう見ていくのかが大切なのかもしれませんね。