自由民主党ってどんな政党?主義や歴史をわかりやすく解説
55年体制下の安定政権
結党した自由民主党は安定した議席数をもとに次々と戦後日本を動かしていく様々な政治的出来事に直面していくことになります。
1960年には岸内閣のもとで新安保条約の締結で繰り広げられた安保闘争によって政治運動が盛り上がり、保守勢力と真っ向から対決。いわゆる政治の季節と呼ばれる一大政治運動が巻き上がりました。
また、岸内閣のあとをうけて成立した池田内閣は国会運営面で「話し合いの政治」の方針を掲げて野党との融和を図り政局が安定していくようになった。
そして元大蔵官僚だった池田勇人は日本国民の所得を10年で2倍にするといういわゆる所得倍増計画が宣言。1964年には東京オリンピックの開催や東海道新幹線が開通するなど日本は高度経済成長と呼ばれる長期にわたる好景気を維持し続けていき、日本をアメリカに次ぐ2位の経済大国に押し上げることをなし遂げたのでした。
そして、東京オリンピックの閉会式が終わった2日後に池田勇人は病気を理由に総理を辞任することを表明。そのあとを佐藤栄作に託して引退することになりました。
佐藤内閣は黒い霧事件などの不祥事を起こしながらも自民党内の派閥をうまくやり込めながら掌握。また外交政策や内政政策にも抜かりはなく日韓基本条約の成立、沖縄返還などの政策を実現。
さらには非核三原則を打ち立てて日本人唯一のノーベル平和賞に選ばれるなど国際的平和にも貢献しました。こうして内政を固めた佐藤栄作は1964年から1972年までの7年8か月の長期政権を維持。連続在職記録は安倍晋三に次いで2位となっています。
しかし、このころから自民党は都市部における支持を失い始めることに。このころは公害問題などの高度経済成長の弊害をもろに受けている時期であり、それが革新勢力の増長を招くことにつながっていました。そのため農村部や地方都市では強い一方、都市やそのベッドタウンでは比較的弱く、いわゆる革新自治体が誕生する決起となりました。
三角の時代
佐藤栄作が総理を辞任した1972年以降、自民党内では佐藤栄作の跡目を決めるために4人の総理候補が互いに総裁を目指していく三角大福(三木武夫、田中角栄、大平正芳、福田赳夫)の時代がやってくることになります。
最初に総理となった田中角栄は『日本列島改造論』をベストセラーにしたこともあって日本全国に高速道路や新幹線を走らせたりするなどインフラを整備。さらには日中戦争以降正常な国交がなかった中国とも日中国交正常化を達成し、日本の政治を大きく変えました。
しかし10月にはオイルショックが起こりそのあおりを受けて狂乱物価と呼ばれるレベルのインフレーションが発生したことによって田中角栄の支持率は大きく逆風を受けることになります。
さらには1976年にロッキード事件が露見すると自民党の中では離反者が続出。さらには田中角栄が逮捕・起訴されたことによって自民党は金満政治と呼ばれた政治体制を改めることとなりました。
その後、総理の座をついた三木武夫はクリーンな政治を目指そうとするのですが、その途中でロッキード事件を解決させる内容も含まれていたため自民党内では三木武夫に対して反発する勢力が現れるようになり、いわゆる三木おろしの動きが見られることになりました。
三木武夫は無事に衆議院が任期満了(衆議院が任期満了まで持ったのはこの時のみ)を迎えましたが、次の総選挙にて自民党は初めて衆議院過半数割れを記録することとなり、三木武夫はこれを受けて辞任。
ここから自民党は革新勢力や第三勢力と伯仲する時代に突入することになります。
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大福の時代
三木武夫の後に総理となった福田赳夫は三木おろしやロッキード事件の後で支持率が低かったのですが、外交や景気回復によってある程度政権は安定。さらにはある程度社会党に譲歩した政治を行ったことによって保守伯仲となった後でも政治を円滑に進められることになりました。
福田赳夫の後に総理の座を受けた大平正芳は消費税の導入を公約に入れてしまったため、前の総選挙と同じように過半数割れを記録することになります。これを大平の責任とする党内では分裂することに。さらには1980年に社会党が大平内閣に対して不信任決議案を提出。過半数割れをしたことやこの時自民党内で欠席する人が多く現れたことによってこの不信任決議案は成立。ハプニング解散と呼ばれたこの解散によって衆議院選挙に突入することになりました。
大平正芳はこの時に心筋梗塞によって死去。自民党はなんとか過半数割れを回避したことによって次の総裁である鈴木善幸の時代に入ることになります。
中曽根内閣の時代
鈴木内閣の後自民党内の実力者が総裁選に立候補しましたが、過半数を中曽根康弘が獲得し総理総裁に就任。自動的に総理となりました。しかし中曽根の自民党内での勢力は非常にひくく、まだこのころ影響力があった田中角栄の派閥を内閣で起用するなど田中角栄の財閥をうまく丸め込んで内閣を運営することに。しかし、このことによって第1次中曽根内閣は「田中曽根内閣」や「直角内閣」などと呼ばれたりするなどまるで中曽根が田中角栄の傀儡みたいな扱いを受けることになりました。
しかし、中曽根はいわゆる田中角栄の政治的影響を徹底的に排除することを表明。ロッキード事件の判決によって行われたいわゆる田中判決解散は自民党の過半数割れとなり新自由クラブとの連立政権にならざる負えませんでしたが、この連立内閣によって政局は安定することになります。
また中曽根は「戦後政治の総決算」を掲げ、戦後日本において膨張していた国営企業を民営化することを提示。このころ世界で巻き起こっていた新保守主義をもとに日本の主要な三公社(日本国有鉄道・日本電話電信公社・日本専売公社)を民営化することで合意。それぞれJR・NTT・JTとなり国営企業の政府の負担を軽減しました。
さらには保守的な態度を貫き通してロナルド・レーガン大統領との有効的な態度を維持。中曽根とレーガンの中が非常に良かったことからこの関係は「ロンヤス」とも言われています。こうして中曽根内閣は4年の安定した政権を維持して次にバトンタッチすることになったのでした。