日本の歴史江戸時代

鳴滝塾とは?長崎に設けられた医学の私塾とシーボルトの生涯をわかりやすく解説

江戸時代後期を代表する蘭学者:高野長英

高野長英(たかのちょうえい)は1804年、陸奥国水沢の武士の家に生まれます。

16歳になったころ、家族の反対を押し切って単身長崎へ。鳴滝塾に入門し、西洋医学を学びます。非常に優秀で、塾頭として門下生の束ね役になっていたそうです。

1828年、シーボルトが帰国時に地図を持ち出し追放となった一件(シーボルト事件)では、他の門下生とともに厳しい詮議を受けるところでしたが、何とか逃れ、しばらくの間身を隠していました。

1830年に江戸に医者として現れ、開業。1832年には『医原枢要(いげんすうよう)』という生理学書を出しています。

幕末の日本において開国を支持幕政を批判して投獄されますが、脱獄し、薬で顔を焼いて人相を変えながら転々と逃亡生活を続けていました。1850年に江戸に舞い戻って潜伏していたところを捕らえられ、自ら命を絶つという壮絶な最期を遂げました。

シーボルトの娘イネを教育:二宮敬作

二宮敬作(にのみやけいさく)は1804年、伊予国(愛媛県)の農家の家に生まれます。

16歳のときに医者になるべく長崎へ留学。武士でも医者でもない家の生まれでしたが、鳴滝塾に入門。シーボルトの江戸参府にも同行し、師から多くを学びます。

シーボルト事件の時は、変装して小舟に乗り込み、追放され長崎を去るシーボルトを見送ったのだそうです。

敬作はシーボルトから、イネ(シーボルトの娘)の教育を任されます。敬作は郷里へ戻り、町医者となって働くかたわら、イネに学問を授けました。

シーボルトが再び日本にやってきたとき、敬作は再開を果たしています。この頃、かなり体調を崩して伏せがちになっており、3年後の1862年、長崎にて死去。59歳の生涯を終えます。

幕府医師に登用された名医:戸塚静海

戸塚静海(とつかせいかい)は1799年、遠江国(静岡県)の医者の家に生まれます。

蘭学を学ぼうと、17歳で江戸に渡り、25歳の時に長崎へ出て鳴滝塾に入門。外科医としての腕を磨きます。

シーボルト事件の際、他の門下生とともに捕らえられ、数か月間幽閉。シーボルトが追放された後、長崎で医学を教えていましたが、やがて江戸へ。薩摩のカリスマ藩主・島津斉彬から信頼され、薩摩藩の藩医を務めるなど、鳴滝で身につけた医学の技術を存分に発揮していきます。

斉彬が亡くなった後、幕府の官医に登用され、第13代将軍徳川家定の侍医に。法印(ほういん)という最上位の称号を与えられます。

その後も、江戸の医学のために尽力。1876年(明治9年)、78歳でこの世を去ります。

「お玉ヶ池種痘所」設立に尽力:伊東玄朴

伊東玄朴(いとうげんぼく)は1801年、肥前国(佐賀県)に生まれます。

執行 (しゅぎょう) 家という歴史ある家に生まれますが、玄朴が生まれた頃は貧しい農家でした。玄朴は佐賀藩士伊東家の養子となります。

23歳で佐賀藩医に弟子入りし、その後、鳴滝塾に入門。長崎で医学を学びます。

1826年、シーボルトの江戸参府に同行しますが、玄朴はそのまま江戸に残り、江戸で学ぶ蘭学者たちと交流を深めていきました。

1831年には佐賀藩医として鍋島家に召し抱えられます。

伊東玄朴は、種痘(しゅとう)の普及に尽力した人物として有名です。

種痘とは天然痘の予防接種のこと。玄朴は長崎からもたらされた牛痘(ぎゅうとう)苗を用いた接種に成功し、1858年、神田に「お玉ヶ池種痘所」を開設します。

同じ頃、戸塚静海とともに幕府奥医師となり、活躍。1871年(明治4年)、72歳でこの世を去ります。

長崎の観光スポット:シーボルト邸宅跡と鳴滝塾

鳴滝塾の建物は、現在はもう残っていません。建物の跡地にシーボルトの胸像が建てられているだけです。

当時の鳴滝塾は木造2階建て。緑に囲まれた美しい庭には、シーボルトが集めてきた草花が植えられていました。

シーボルトが長崎を去った後、鳴滝塾の建物には、しばらくの間、妻の滝と娘のイネが暮らしていたのだそうです。

やがて2人とも長崎を離れることとなり、敷地を売却。台風の影響などで建物は壊れ、解体されてしまいます。

時代は明治から大正へ。娘の楠本イネは産婦人科医となり、鳴滝塾跡地の保存に力を注ぎます。

1922年(大正11年)には「シーボルト宅跡」として国の史跡に。現在、観光スポットとなっている赤レンガ造りの「シーボルト記念館」は平成元年に開館したものです。

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