小説・童話あらすじ

5分でわかる「ダニエル・デフォー」生涯・名言・代表作品をわかりやすく解説

2-4.人生の大失敗!牢獄へ

1689年に共同保有する船が、フランス軍官に拿捕されます。商業取引が不安定な時代で、杜撰な仕事ぶりが問題になり共同投資者から訴えられました。1688~1692年の間に、金銭トラブルで8回も訴えられています。

他にも、宝石海舟の投資から潜水鐘の特許を持つ男性とのトラブルとなったり、ジャコウネコの購入に関するトラブルや事業拡大などで借金まみれになったりし、妻の持参金にまで手をだしデフォーは1万7千ポンド(現在の1億円弱)もの負債を抱え破産したのです。負債者は牢獄に入るのが慣例で、彼もフリート監獄に監修され、裁判所のあるキングズベンチ監獄へ入れられますが、すぐに釈放されました。

彼の行動範囲は尋常でなく、商売だけでなく宗教や政治活動にまで広がります。1693年2月には、他の金銭トラブルでキングズベンチ監獄に再度収監されました。

2-5.牢獄人生からの復活

破産前に購入していた、土地に瓦工場を建てます。まだ、レンガや瓦生産がされていない頃。貧しい人々を100人雇い、不燃物での建設ラッシュにより成功し復活します。

彼の工場で作られたレンガは、クリストファー・レンが設計したグリニッジ(王立海軍)病院の建設に使われているとか。政府関係者にコネがあり、ガラス製委員会の監査役や国営宝櫛の理事などもしており、これらのプレミアムな収入もありました。

2-6.著作活動を始めるデフォー

上手く行かない商売のストレス発散に、時世を風刺する詩や記事を書き始めます。時代もデフォーに流れており、1689年の「寛容法」が制定され、1695年に「出版認可法」が廃止となりました。

言論や出版の自由が保障され、1695年ごろには「ペーパー戦争」と呼ばれる現象が起き英国のジャーナリズムの最盛期を迎えます。デフォーやスウィフトらが勢いづき、政治的な活動も始めたようです。デフォーの生活は、次第に商売から執筆活動が中心になります。本人は、商売に未練があったようですが…。

2-7.政治活動へ傾倒して行くデフォー

1688年には名誉革命で、イングランド・スコットランド王ウィリアム3世とメアリー2世が即位した時は出迎えなどし、1694年にウィリアム3世の単独君主時代には、彼を熱烈に支持し『国策を諭す』・『常備軍論』・『生粋のイングランド人』などで、彼を擁護する論文を発表します。

1700年の風刺詩『調停者』では、文学論争も提供しました。演技の不道徳性を問題視したリチャード・ブラックモアが代表的存在の「分別派」と、ドライデンやコングリーヴ、アンディソンなど錚々たる作家たちが名を連ねる「ウィット派」の論争が起ったのです。でも、デフォーは自身の風刺精神を発揮し調停役を買って出て、「このような内乱は損しかない。一番の被害者は一般国民だから、和解し休戦するべき。」と訴えました。

3. ハーレーと出会うデフォーは幸せだった?

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By James Charles Armytage (died 1902) – one or more third parties have made copyright claims against Wikimedia Commons in relation to the work from which this is sourced or a purely mechanical reproduction thereof. This may be due to recognition of the “sweat of the brow” doctrine, allowing works to be eligible for protection through skill and labour, and not purely by originality as is the case in the United States (where this website is hosted). These claims may or may not be valid in all jurisdictions. As such, use of this image in the jurisdiction of the claimant or other countries may be regarded as copyright infringement. Please see Commons:When to use the PD-Art tag for more information., Public Domain, Link

デフォーが書いたパンフレット『非国教徒撲滅策』が原因で投獄され、その後の裁判で晒し台の刑を言い渡されます。当時の晒し台の刑では、集まった群衆が罪人に対し、石や腐ったリンゴ、汚物などを投げつけ、殺されるものもいた恐ろしい刑罰でした。本人も、嘆願書をだすほど恐れており、親友たちも必死で彼を救おうと奔走します。そして、政治家のロバート・ハーレーに救いを求め、ここからデフォーとハーレーの主従関係が築かれました。

3-1.ジャーナリストとなり大活躍

1702年にウィリアム3世が急死し、国教会派のアン王女が即位します。王女は5月の議会で、国教会重視の声明を発表し、それに食いついたハイ・チャーチとトーリー党が非国教徒の絶滅を主張しました。ジャーナリストとして飛躍するデフォーが執筆した、パンフレット『非国教徒撲滅策』が問題視されます。

政府は1月3日に逮捕状をだしたのです。晒し台の刑になるかもと、慌てて身を隠し逮捕を逃れますが、50ポンドの報酬がかけられ、5月21日に友人宅に隠れていたデフォーは逮捕されます。半年弱ニューゲイトの監獄に監修されました。

3-2. 地獄から天国?晒し台の刑が栄光へ

裁判でデフォーは、「『非国教徒撲滅策』を執筆したが、火に油を注ぐ意図は無かった。」と訴えます。判決はかなり重い3度の晒し台の刑と200マルクの罰金、7年間の法遵守とその保証人でした。7月29日から3日間連続して、晒し台の刑が執行されるも奇跡が起こったのです。

デフォーの支持者が彼を囲んで、汚物ではなく花が投げられました。集まった人々がパンフレットを称えあい、彼はヒーローになります。シティには非国教徒が多かったのも要因ですが、友人たちが救いを求めた政治家のロバート・ハーレーの弁護で、奇跡が起きたのは事実でしょう。

晒し台の側では、『非国教徒撲滅策』が販売され、売れ行きが増大しました。この事件で快調だったレンガ工場が破産状態になり、8000ポンドの借金を新たに抱え、1万7千ポンドの借金も残っており絶望的でした。でも、この奇跡は「棚から牡丹餅」いや「濡れ手で粟」だったようです。

3-3.恩人ハーレーとの活動期

ピューリタン革命の反動で道徳的にも乱れており、反対派の新聞への寄稿を行った時は顰蹙を買ったようです。一時国の政治スパイ活動も行っており、イギリス各地に出没したとか。20年近いジャーナリスト時代には、さまざまな階層の人々と触れ合えたようです。

1704年には、救いの神ハーレーの庇護により、党新聞『The Review』を週3回書きました。事実上政府の広報官となり、政治や経済、社会に関する論説が主でしたが、得意の地理学を始めちょっと夢のある「月の世界への旅行」という変わった論文も見つかっています。デフォーは、「宇宙開発のパイオニア」といえるのでは?

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