幕府使節として渡米
1860年、幕府は日米修好通商条約の批准書を交換するため、アメリカに使節を派遣しました。この時に、随行艦となったのが咸臨丸です。咸臨丸の館長を務めたのは、のちに江戸開城などで活躍する勝海舟(義邦)でした。
咸臨丸は約90人の乗組員を載せて、アメリカへと船出します。途中、暴風雨に見舞われ大変な苦労を強いられますが、なんとかアメリカに到着しました。福沢は志願して咸臨丸に乗り込み、渡米を果たします。
渡米した福沢は文化の違いにとても驚きました。アメリカ建国者といってもよい初代大統領ワシントンの子孫を、多くの人々が知らないことについて日本と比較し驚いています。
アメリカで購入した『華英通語』という広東語と英語の対訳を手に入れたことも、英学研究に弾みをつけました。帰国後、福沢の蘭学塾は英語塾へと様変わりします。
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渡欧と『西洋事情』の著述
1862年、福沢は幕府がヨーロッパに派遣した文久遣欧使節の通訳としてヨーロッパにわたりました。途中の香港では、イギリス人が中国人を犬猫のように扱う様子を受け強い衝撃を受けます。
当時のイギリスはヴィクトリア女王時代の「大英帝国」。世界で最も強大な国家としてイギリスが君臨していた時代でした。ヨーロッパに到着した福沢はロンドン万博を視察後、蒸気機関車などの当時最先端の文物に触れます。
このとき、福沢は幕府から支給されたお金を使ってたくさんの書物を買い込みました。と同時に、ヨーロッパの社会や制度についても熱心に調べています。
帰国後、福沢は『西洋事情』を著述しました。『西洋事情』の中で福沢は、欧米諸国の政治や税金、国債の仕組み、学校や図書館の制度、新聞、病院制度、蒸気機関など西洋の様々な仕組みについて紹介しました。
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明治維新後の福沢諭吉
1867年から1868年にかけて、日本では国を二分する戊辰戦争が勃発。江戸幕府が倒れ、明治新政府が誕生しました。福沢は明治政府への出仕を断り、学問や教育の分野で活動します。明六社の結成など、言論人としても発言・活動を行いました。その一方、「脱亜論」を唱え、対清強硬論を唱えるなど独特の対外認識も示します。
慶應義塾の運営
慶応三年(1867年)1月、福沢は幕府の軍艦を受け取る随行員の一員として再び渡米。多くの書籍を買い込んで6月に帰国します。国内政治は大政奉還、王政復古と激動していました。しかし、福沢は政治に深く介入することはしません。
1868年、かねてから開いていた私塾を慶應義塾と名付け、教育活動に邁進しました。慶應義塾には、福沢自身が残した「慶應義塾の目的」という文章があります。それによると、福沢は慶應義塾を単なる学問の場ではなく、日本の「気品の泉源智徳の模範」となることを期待し、実行する場であると定義していました。
福沢は、単に実学を教える場としてではなく、日本を率いるリーダーとしての治世を磨く場として慶應義塾を捉えていたのかもしれません。
その上で、福沢は「独立自尊」の精神を学生に求めました。「一身の独立なくして一国の独立なし」の理念の下、自立した人格の形成を目標としたのでしょう。