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幕末維新に活躍し1万円札の肖像画となった「福沢諭吉」その生涯を元予備校講師が分かりやすく解説

『学問のすゝめ』の著述

1872年、福沢は『学問のすゝめ』の初版を出版。以後、1876年まで出版を続け1880年に一冊の本にまとめられました。この中で、福沢は自由・独立・平等の考え方を説きます。

天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずといへり」というのは、この本の冒頭文ですね。文末に「いへり」とあることから、天は人の上に人を造らずという言葉は福沢の言葉というより、何かからの引用と考えるべきでしょう。

第二編で、福沢は人は同等であるとし、市民権や法治主義を説明しました。第三編では、自分自身の独立こそが、自分の国の独立につながると主張。また、第十三編では怨望の人間に害あるを論ずと題し、怨恨は人間最大の不道徳だとしました。

文章は、明治時代の文章のため決して読みやすくはありません。しかし、現代でも通用する考え方が多数収録されているので、ぜひ、手に取って読んでみることをお勧めします。

明六社の結成

1873年、渡米から帰国した元薩摩藩士森有礼は、福沢諭吉、加藤弘之、中村正直、西周らに呼び掛け、明六社を立ち上げました。明六社は日本最初の近代的啓蒙学術団体でした。会員には旧幕府官僚や開成所の関係者、慶應義塾門下生などが多数参加します。

1874年、機関誌『明六雑誌』を発行しました。当初、社長には福沢が推薦されましたが、福沢は固辞。かわって、森が初代社長になりました。『明六雑誌』を編集した人々は、技術だけの文明化ではなく、国民一人一人が当時の世界標準に追いつくべく、切磋琢磨するべきだと主張します。

『明六雑誌』は国民を啓蒙しようという大きな目標こそ持っていましたが、それ以上の厳密な編集方針などはありません。そのため、著者によってかなり異なる主張を展開しました。

福沢自身は、積極的に明六雑誌に寄稿することはありませんでしたが、国民啓蒙の必要性は感じていたかもしれません。

福沢諭吉と脱亜論

1882年、福沢は『時事新報』を創刊しました。創刊にあたっては慶應義塾の出身者が全面的にバックアップします。1885年3月16日、『時事新報』に無署名の社説が掲載されました。

社説では、西洋文明の伝播は(感染力が強い)麻疹(はしか)のようなもので、避けることはできない。ならば、国民を少しでも早く、西洋文明に感染させたほうが良いと主張します。

さらに、「不幸なるは近隣の国」とし、儒教道徳に縛られ近代化を拒んでいる清国(支那)と朝鮮を批判。両国が日本の明治維新のようなことを行わなければ、数年たたずに滅亡すると論じました。

西洋列強から日本が朝鮮や清国と同一されるのは日本の国益に合わない。ならば、「亜細亜東方の悪友」を謝絶し、西洋文明を取り入れるべきだとしました。この考えを脱亜論、または、脱亜入欧といいます。

福沢がこの論説をかいたかどうかは定かではありませんが、『時事新報』の創刊者が福沢であることを考えると、全く無関係ではないでしょう。

1万円札の顔となった福沢諭吉

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1984年6月25日、大蔵省は聖徳太子に代わる新しい一万円札の肖像として福沢諭吉が採用されました。以来、2020年現在でも福沢諭吉が一万円札の肖像画として採用されています。政治家や歴史上の偉人が紙幣の肖像になることが多かった時代、文化人である福沢が最高額紙幣の肖像になるのは異例でした。まさか、本人もお札の肖像になるとは思わなかったでしょうね。

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