虎ノ門事件の全容
1923年12月27日。摂政宮皇太子裕仁親王が摂政として第48通常議会の開院式に出席するため午前10時35分に皇居を出発。ところが10時40分頃に皇太子がお乗りになっている自動車は虎ノ門の付近を走っているさなか、群衆の中にいた難波大助がステッキ仕込み式の散弾銃で狙撃。
幸いにも皇太子には命中せずに、侍従長の入江為守が軽傷を負っただけに過ぎず、皇太子は「空砲だと思った」と平然と側近に語ったとされています。
その後、難波大助は逮捕。ここに虎ノ門事件は終結したのでした。
事件起きれば政治家現る!?
難波大助の父は山口8区選出の衆議院議員や周防村の村長を歴任するなどまさしく立派な父親でした。
しかし、この虎ノ門事件によって息子が大逆罪となるような事件を起こしてしまうと父親である自身も白い目で見られていく恐れが出てくるようになってしまいます。
その後父は衆議院議員を辞職。さらには自邸の門に青竹を打ちすべての戸を針金でくくって、三畳間に閉じこもり食を断ちら約半年後に餓死したとされています。
ちなみに、これによって空いた山口8区に新しく入ったのが満州事変の混乱の最中国際連盟を脱退する通告を行ったあの松岡洋右。選挙地盤を彼が引き継ぐこととなり、さらに戦後は岸信介や佐藤栄作という大物保守系政治家に引き継がれることになります。
虎ノ門事件の影響
虎ノ門事件では皇太子はなんの怪我も負うことはなかったのですが、皇太子に向かって銃撃を与える隙を与えたことは日本政府にとったらとんでも無いほどの衝撃を与え、政府を大きく動かす結果となってしまったのです。
第二次山本権兵衛内閣の総辞職
事件が起こったと知った山本権兵衛ら全閣僚は事件を防げなかったという申し訳ない気持ちからなんと総辞職。皇太子は「そこまでしなくても良い」と総辞職を撤回するように慰留しましたが、山本権兵衛の決意は固くそのまま内閣は総辞職することになりました。
後を継いだのは枢密院議長であった清浦圭吾。この人はいわゆる超然主義の形をとって政党の意向を無視していたため、いわゆる第二次護憲運動が起こることにつながっていくのでした。
ちなみに、山本権兵衛の1回目の総辞職はシーメンス事件という贈賄事件によるもの。まさしく不憫ですね。
ドミノだおしの辞職
当時神の子孫だと言われていた天皇や皇太子に狙撃を許すことは国家を揺るがす大事態です。そのため、狙撃を許したとして警察や難波大助の出身地などではすぐさま辞職のオンパレードとなっていきました。
皇太子の警護の責任を取り警視総監であった湯浅倉平と警視庁警務部長であった正力松太郎が懲戒免職となっています。
ちなみに、警務部長の正力松太郎はのちの読売新聞の会長を務めたり、読売ジャイアンツを結成したりしてプロ野球の父とも呼ばれるようになりました。
また、難波大助の故郷である山口県でも山口県知事は2か月間の減俸、故郷の村々は正月まじかであったのにもかかわらず謹慎、難波大助が卒業した小学校の校長と担任の先生は難波を育てたという責任を取り辞職、さらには難波大助が立ち寄っただけで「なんで止められなかったのだ」ということで京都府知事は謹慎処分になっています。
大逆罪による死刑
犯人であった難波大助は逃走を図りますが警戒にあたっていた私服警官や周りにいた群衆に取り押さえられ袋叩きにされます。
群衆は警察の制止を全く聞かず、警察官が難波を殴打からかばわなければならないほどだったようです。難波は逮捕された後、大逆罪で起訴されます。
大逆罪は大審院で審理され、政府や検察もどうにかして大助に自分の行為が誤りであったことを認めさせようとしました。
それほど当時の日本においては皇室に危害を加えるということはあってはならないことだったのです。
しかし難波は最後まで非を認めず、1924年11月13日に死刑の判決が確定し、そして1月15日に死刑が執行されました。