安土桃山時代室町時代戦国時代日本の歴史

日本を守るためだった?「バテレン追放令」の真実とは?奴隷貿易と日本と世界と

天下人となる男・豊臣秀吉の決断

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バテレン追放令の大きなきっかけとなった、九州平定は1586年。九州の大大名・島津氏の征伐のために自ら九州地方へおもむいた豊臣秀吉は、信じられない光景を目にすることとなります。このままでは、まずい――バテレン追放令を発布した後の1591年、朝廷から「太閤」の地位を賜って日本のトップに立つこととなる、豊臣秀吉。天下人として彼が「外国人排除」の決断をした、その理由とは。

九州平定で見たリアル、侵食された日本

1586年、九州の大大名・島津家を勢力下に置くために九州平定へおもむいた秀吉。ここで衝撃の事実を知らされます。なんと長崎が「イエズス会領」になっているというのです。……秀吉もポカンとしたでしょう。キリシタン大名たちは、自身の領地をイエズス会に寄進してしまっていました。神の御心に沿うためという心だったかもしれませんが、この純粋な信仰心が大きな波乱を呼びます。

その上、日本古来の神社や寺、仏や神々、文化遺産と呼ぶべき物たちが、キリシタンたちによって徹底的に破壊されていたことも、秀吉に衝撃を与えました。「偶像を拝んではならない」という一神教のキリスト教の教義に従った信徒たちによる行為ですが、まさか許せることではありません。当初はキリスト教に対して寛容だった秀吉も激怒しました。

また、これは遠く西洋で執り行われたことですが、スペインとポルトガルの間に結ばれた国際条約「サラゴサ条約」により、東経133度を境に日本が東西に分断される国際条約が、勝手に決まっていたのです。日本は切り売りされようとしていたのでした。

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