第二次世界大戦の行方を決めた「ノルマンディー上陸作戦」の背景、経緯、その後を元予備校講師がわかりやすく解説
ノルマンディー上陸作戦の経緯
ダンケルクの撤退からおよそ4年、連合軍は、一度は追い落とされたヨーロッパ大陸に、再び足を踏み入れようとしていました。厳重なドイツ軍の防備を突破するため、作戦は周到に計画されます。連合軍は上陸地点をノルマンディーと定め、史上最大規模の作戦を実行に移しました。
作戦の準備
イギリスからフランスへ渡るためのポイントはいくつかありました。その中で、最終的に絞り込まれた候補は2つ。一つ目はイギリスから最短距離にあるカレー。もう一つはノルマンディーです。
イギリスの目と鼻の先といってもよいカレーは、ドイツ軍も再重要地点と考え、厳重な防備をしていました。そのため、連合国軍はノルマンディーを上陸地点と定めます。
連合国軍の総司令官となったのはアメリカ軍のドワイト=アイゼンハウアー。ノルマンディー上陸作戦に参加した連合軍は、作戦決行日の6月6日に動員された兵力だけで15万強。最終的には200万近い兵員がドーバー海峡をわたってフランスに上陸する計画でした。
これだけの兵力を、しかも、敵前で上陸させるのは前代未聞の作戦です。作戦を成功させるため、連合軍は、作戦目標はカレーで、ノルウェー方面にも進撃するという偽情報を流し続けました。
ドイツ側の防衛体制
ドイツ側の西部方面の防衛司令官はルントシュテット元帥でした。ヒトラーは、さらに防備を固めるためフランス北部を防御する司令官として名将ロンメルを起用します。
ルントシュテットは敵軍を内陸に引き込んでの撃滅をはかりました。一方、ロンメルは水際で連合軍を叩く以外に方法はないと考えます。両者の考えは対立しました。そのため、有効な防御態勢を敷くことが困難となります。
それでも、ロンメルは連合軍の上陸地点はノルマンディーであると考え、沿岸の防備に取り掛かりました。ロンメルは沿岸防備の兵力不足を補うため、600万個もの地雷を投入します。
ドイツ宣伝省のプロパガンダでは、堅固な大西洋の壁が連合軍を防ぐとしていましたが、実際には兵力不足と物資不足で十分な防衛ラインとは言えない状況でした。
上陸作戦の開始とオマハビーチの死闘
1944年6月6日、連合軍の空挺部隊がノルマンディー各地に空から侵入。ノルマンディー上陸作戦が始まりました。空挺部隊のかく乱でドイツ軍が混乱しているうちに、主力部隊を海岸から上陸させようというものでした。
連合軍は5カ所同時に上陸を開始します。最も激しい戦闘が行われたのはオマハビーチでした。オマハビーチには東部戦線で豊富な戦闘経験を持つ精鋭部隊が配置されており、しかも、防衛側の砲台が空爆や艦砲射撃に耐えて多く生き残っていたからです。
オマハビーチに上陸した米軍第一歩兵師団は、激烈な反撃にあい、海岸で立ち往生しました。この戦いで、2500名とも4000名ともいわれる米兵が犠牲となったため、オマハビーチはブラッディオマハ(血まみれのオマハ)と呼ばれるようになります。
各上陸地点で連合軍はドイツ軍の反撃を受けますが、圧倒的兵力差や制空権がモノを言い、次第に戦局は連合軍に有利に傾きました。
ノルマンディー上陸作戦の影響とその後の戦局
ノルマンディー上陸作戦の成功で連合軍はフランス上陸の橋頭保を確保します。ノルマンディーでの勝利は、第二次世界大戦における連合軍の勝利を決定的なものとしました。連合軍は1944年8月にパリを解放することに成功します。1945年4月30日、ヒトラーがベルリンの総統官邸の地下室で自殺したことにより、ドイツは降伏。ヨーロッパでの戦争が終結しました。
連合軍による橋頭堡の確保
上陸部隊が沿岸部のドイツ軍と戦い拠点確保に成功すると、連合軍はあらかじめ用意していた人造埠頭を海岸に設置。本格的に上陸部隊を送り込み始めます。海岸部のドイツ軍は連合軍の圧倒的物量の前に撤退を余儀なくされました。
攻撃目標をカレーだと判断していたドイツ軍は、ノルマンディー上陸の知らせを聞いても、カレーやチャンネル諸島から兵力を動かすことができません。
橋頭保を確保した連合軍は港町シェルブールと拠点都市であるカーンの奪取を狙い進撃を開始しました。連合軍は、シェルブール手前の防御陣地でかなり苦戦します。
それでも、6月27日、連合軍はシェルブールを制圧することに成功しました。7月7日にはカーンも制圧し、ノルマンディー地方の制覇を確たるものにします。フランス奪還の糸口をつかんだ連合軍は、パリ解放を目指しました。