フランスブルボン朝ヨーロッパの歴史

ルイ13世の宰相「リシュリュー」絶対王政確立に活躍した枢機卿を元予備校講師がわかりやすく解説

皇太后マリ=ド=メディシスとの対決とリシュリューの勝利

権力を強めていくリシュリューに対し、心穏やかでいられなかったのが母后のマリ=ド=メディシスでした。マリはリシュリューの政策に反対する廷臣を巻き込んで、ルイ13世に対し、リシュリューを罷免するよう圧力をかけます

リシュリューを信任していたルイ13世はマリの圧力に耐え、リシュリュー罷免を拒否しました。しかし、マリの圧力は日増しに高まります。とうとう、ルイ13世はリシュリューの罷免に同意しました。

しかし、この動きに気づいたリシュリューはルイ13世を説得。ルイ13世はリシュリューの続投を支持しました。

マリ=ド=メディシスと王弟のオルレアン公ガストンは、その後もリシュリュー追い落としの陰謀をたくらみますが、全て失敗に終わります。リシュリューは国内にスパイ網をめぐらし、反対派の動きを封じ込めました。

ドイツ三十年戦争への介入

Westfaelischer Friede in Muenster (Gerard Terborch 1648).jpg
ヘラルト・テル・ボルフ – www.geheugenvannederland.nl : Home : Info : Pic, パブリック・ドメイン, リンクによる

王権の強化とともに、リシュリューが熱心に取り組んだのが反ハプスブルク政策です。ハプスブルク家はドイツの神聖ローマ帝国の皇帝家で、この時はスペイン王もハプスブルク家が占めていました。そのため、フランスは周囲をハプスブルク家に囲まれる不利な立場に置かれます。リシュリューはドイツで起きた30年戦争を最大限利用し、ハプスブルク家の力を弱めようと考えました。

ドイツ三十年戦争とは

16世紀前半、ドイツでは宗教改革がおき神聖ローマ帝国内でカトリックの皇帝と新教徒の諸侯たちが戦いを繰り返しました。1555年に結ばれたアウクスブルクの和議でひとまず戦いが終わりますが、新旧両派の対立は続きます。

1618年、ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝フェルディナンド2世は領地のベーメン(現在のチェコ)の新教徒たちにカトリックを強制。これに反発した新教徒たちと皇帝が戦いを始めました。

戦いはドイツ国内だけにとどまらず、周辺国も巻き込みます。1625年にはデンマーク王クリスティアン4が、1630年にはスウェーデン王グスタフ=アドルフが、ともに新教徒に味方して参戦。戦いに参加した傭兵たちが各地を略奪したため、ドイツ国内は荒廃しました。

ハプスブルク家の優位に展開していた戦局とリシュリューの介入

1618年の開始以来、戦いは皇帝であるハプスブルク家の優位に進んでいました。皇帝軍総司令官であるヴァレンシュタインなどが新教徒の軍と戦い、勝利を重ねていたからです。

スウェーデン王グスタフ=アドルフがリュッツエンの戦いで戦死すると、皇帝は強大になりすぎたヴァレンシュタインを暗殺してしまいました。戦争は全体として皇帝優位に進み、新教徒の諸侯たちは皇帝と和約を結ばざるを得なくなります。

ここで、リシュリューが動きました。本来、フランスはカトリックであり、リシュリューもカトリックの枢機卿。それならば、皇帝に味方するのが筋です。しかし、それではハプスブルク家の勢力が強まってしまいますよね。

そこで、リシュリューはあえて新教徒たちに味方し、ハプスブルク家と戦いました。フランス軍はドイツに進撃し、30年戦争は新たな局面を迎えます。さらに、フランスと国境を接するスペインはベルギーとスペイン本国の両面からフランスに迫りました。

三十年年戦争の終結とウェストファリア条約

フランスの介入でドイツの新教徒は勢力を挽回。戦いは振出しに戻ってしまいました。ヴァレンシュタインを欠く皇帝軍は以前ほどの強さを失っていたため、戦線は膠着状態となります。

1645年、両勢力はウェストファリア地方の二つの都市で講和会議を開きました。会議は3年にわたって続きましたが、1648年にようやく決着。ウェストファリア条約が調印されました。

条約では、ルター派に加えてカルヴァン派の信仰の自由が認められたこと、ドイツの300余りの諸侯が立法権や課税権、外交権を持つ独立国家(領邦)であることを認める、フランスはアルザス地方を獲得する、スペインはオランダの独立を承認するといった内容が決められます。

ウェストファリア条約においてハプスブルク家のドイツ支配力は大きく低下。フランスは新領土も獲得できたため、フランスに有利な条約となりました。

次のページを読む
1 2 3
Share: