南北朝時代室町時代日本の歴史

室町幕府の黄金時代を築いた大将軍「足利義満」をわかりやすく解説

鹿苑寺(金閣)建立と北山文化

足利義満と聞いて、真っ先に「金閣寺」を思い浮かべる方も多いでしょう。

金閣寺とは正式名を鹿苑寺(ろくおんじ)といい、「相国寺(しょうこくじ)」の塔頭寺院に該当します。本来は、義満の山荘(北山殿)として造営した建物。寺となったのは義満の没後なのだそうです。

場所は京都御所の北西の方角。この地にはもともと、鎌倉時代の公卿であった西園寺家の別荘がありましたが、北山と呼ばれているこの地を、1397年に義満が譲り受け、山荘を造ったのが始まりです。

西園寺家は鎌倉時代、朝廷と鎌倉幕府の連絡係を務めた名家でしたが、鎌倉幕府が滅亡した頃の当主・西園寺公宗が後醍醐天皇の暗殺を企てたことが明るみに出て処刑。西園寺家の財産は没収されてしまいます。そのうちのひとつが、義満が譲り受けた土地でした。当時はすっかり荒れ果ててしまっていたのだそうです。

敷地の中には嗜好を凝らした庭園が広がり、絢爛豪華な建物が並びます。その規模は、京都御所をも凌駕するほどだったとか。中でもひときわ注目を集めたのが舎利殿、つまり金閣でした。

金閣寺は応仁の乱で建物の多くが崩壊してしまいましたが、その後再建。1950年(昭和25年)に放火事件があったことはご存じの方も多いと思いますが、その際も全国から寄付金が寄せられ、2年もの歳月をかけて再建しています。

義満が築いた金閣は、現代でも京都屈指の観光スポット。多くの人を魅了し続けています。

更なる高みを目指しつつ享年51歳で没

義満は皇位、つまり天皇の座を狙っていた可能性も示唆されています。かくたる証拠や記録はありませんが、とにかく義満が、大きな野望を抱き上を目指し続けていたことは確かです。

幕府を強くし、小うるさい大名たちを弱らせ黙らせ、自分に歯向かう者たちを制圧。明との貿易で莫大な財産を築き、北山に豪華な山荘を築いて華やかな北山文化を大成。朝廷にも寺院にも絶大な影響力を持ちながら、決して休むことなく政治の中心に立ち続けました。

そんな義満ですが、1408年(応永15年)、突然病に倒れます。数日後に危篤状態となり、死去。享年51歳でした。

義満亡き後、室町幕府はどうなったのでしょうか。

将軍職には息子の義持が就いていました。義持は28年もの長きにわたり将軍を務めましたが、そのうちの半分くらいは義満が存命。実際には義満が政治を行っていたようなものでした。将軍としての存在感は薄く、その後の足利将軍もみな、義満ほどの強さ・カリスマ性はなかったとみられています。

次第に、各大名たちの勢力争いが再燃。後継者争いに忙しく地方の行政などほったらかし状態が続き、やがて応仁の乱のような激しい戦を引き起こすことになってしまうのです。

室町幕府を強くした敏腕将軍・足利義満

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年齢を重ねてからの義満は、日明貿易が成功したこともあって大変お金持ちだったのだそうです。考えてみればあの豊臣秀吉も金の茶室を作ったり、黄金が大好きだったと伝わっています。高みを目指す権力者は金に魅せられるものなのでしょうか。現代人からしても、建物を金箔で覆うなど突拍子もない事に思えますので、当時の人々は金閣寺を見て度肝を抜かれたはず。その表情を見て人知れずにんまりほくそ笑む義満。案外、お茶目な人だったのかもしれません。

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