植民地軍の総司令官にはワシントンが就任
北アメリカの植民地軍は、ワシントン(初代大統領)を総司令官に就任させ、イギリス軍との戦争に挑んだのです。もともと、イギリスの軍事力は当時の世界でも有数の力を持っていました。そのため、植民地軍は不利を強いられますが、当時のヨーロッパの大国は、イギリスに痛め付けられていたため、植民地軍を支援するようになり、戦争は長引きました。
植民地軍はフランスなどのヨーロッパ諸国の支援で形勢逆転
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北アメリカの植民地軍には、イギリスとの植民地拡大競争に遅れをとっていたヨーロッパのフランスなどの諸国が植民地軍に武器、資金などの支援をしたため、彼らは当初の不利を克服して、逆に有利に戦いを進めるようになったのです。独立宣言がおこなわれたのもその最中でした。
パリ条約でアメリカ独立が認められる
そして1783年には、イギリスも戦争の不利を認めて、ついにパリ条約を締結しました。すなわち、北アメリカの独立を認めざるを得なくなったのです。北アメリカの植民地は、約10年にわたる戦争の末についに正式に独立が認められました。
アメリカ合衆国憲法の制定_ワシントンの起草、大統領へ
パリ条約で正式に独立を認められた北アメリカの13州は、総司令官だったワシントンがアメリカ合衆国憲法の起草に入りました。自由と市民権を掲げたアメリカ合衆国憲法は1787年に制定され、翌年に発効したのです。そして、初代大統領にはワシントンが選ばれました。
イギリスの植民地拡大策が招いたボストン茶会事件とアメリカ独立
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イギリスは、ボストン茶会事件当時には、産業革命をテコとして積極的に植民地拡大に乗り出し、インド、などのアジア、北アメリカ、オーストラリアなどの植民地の拡大を成功させていました。しかし、東インド会社そのものは大きな利益を上げていたものの、イギリス政府は大きな戦費の負担を強いられていたのです。インドでは成功したものの、インドネシア地区などではオランダとのアンボイナ事件を発端とする英蘭戦争に負けてアジアでの植民地拡大はストップせざるを得なくなりました。その結果、植民地に大きな負担をさせざるを得なくなり、北アメリカの植民地の反発を招き、ボストン茶会事件を武力制圧しようとしたのです。しかし、逆に北アメリカ植民地から反撃を受け、独立を許してしまいました。
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ボストン茶会事件は大国のエゴが引き起こした
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ボストン茶会事件が起きた18世紀から19世紀にかけては、イギリスをはじめとしたヨーロッパ大国はアジア、アフリカに植民地を求めて多くの地域で拡大戦争を起こしました。それは、植民地のことを考えない大国のエゴイズムに支配された行為だったと言えます。第二次世界大戦後に多くの植民地が独立しました。しかし、それも植民地の主権国のエゴで国が作られ、民族単位での独立でなかったため、アフリカ大陸や中東などでは未だに民族対立、宗教対立が絶えません。現在でも、世界秩序は不安定なままに推移しているのです。
もう一度、大国のエゴを捨てて、世界の平和のために何が必要なのかを考えてみる必要があるでしょう。
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