七年戦争の戦費の植民地への負担_印紙法や茶法など
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そして、当時のイギリス人ならびに北アメリカなどの植民地の人々のたしなみであった紅茶の茶葉の貿易に対して植民地側に関税をかける法律が成立したのです。すなわち、1773年に成立した茶法でした。このように、イギリスの植民地に対する度重なる税金をかけようとする姿勢に対して北アメリカ植民地の人々は激怒しました。
戦費の植民地への負担に反発した北アメリカ植民地
イギリス政府は、イギリスの戦争は植民地の安定と拡大を目指すものであり、当然植民地が戦費を負担すべきであるとしていました。しかし、実際に当時の七年戦争はヨーロッパ大陸の覇権をめぐるプロイセンとフランスの戦いでした。イギリスはフランスのアジアや北アメリカ北部(現在のカナダ)でフランスに攻撃しているだけだったのです。参戦によってプロイセンから膨大な戦費の支援を約束してしまい、実質的にはこのプロイセンへの戦費支援費用を植民地に背負わせる結果になっていました。
インドなどの植民地は、フランスをインド地域から追い出し、東インド会社の支配範囲を広げていたため、メリットは大きかったと言えます。しかし、北アメリカの植民地にとってはカナダの植民地が拡大しても彼らには関係がなく、戦費を負担する意味はなかったのです。そのため、植民地全体が共同で、北アメリカの植民地代表がイギリス議会に参加できることを要求しました。イギリスの議会での税制論議には植民地のイギリス人も参加して決めるべきと要求し、茶法などの撤廃を求めたのです。しかし、それはかなわず、植民地の一部の急進派の人々は、地元の了承もなく成立した印紙法や茶法を認めようとしませんでした。
ボストン茶会事件は独立戦争へのスタートになった
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イギリス本国はついに茶法を強制的に施行させたのです。それに反対する植民地の人々でも急進派と言われた人々は、1773年12月にマサチューセッツ植民地のボストンで行動に打ってでます。ボストンの港で、停泊していたお茶の輸送船を襲い、積み荷の東インド会社の茶箱を海に投棄したのです。
これをきっかけとしてイギリス本国と北アメリカの植民地は対立を強め、イギリスはイギリス軍を投入して暴動を鎮圧しようとしたのでした。それに対して、北アメリカ植民地の人たちも軍を編成して、本格的な独立戦争に突入していったのです。
イギリスへの抗議はそのまま独立戦争に発展
もともとは、イギリス本国への抗議で始まりましたが、急進派の不満はそれだけではおさまらず、暴力による抗議に発展し、それに対してイギリス本国は軍隊で武力制圧しようとしたのです。これはまるで現在の香港における混乱を思い起こさせてくれますね。
結局、混乱は独立戦争に発展してしまったのです。
ジェファーソンによる独立宣言
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独立戦争中の1776年には、植民地軍のジェファーソンが起草した独立宣言が発表されました。ジェファーソンは3代目の大統領になっています。自由と平等を掲げた独立宣言は、その後に起こったフランス革命にも大きな影響を与えたのです。
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ボストン茶会事件から発展したアメリカ独立戦争
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ボストン茶会事件と言われる小さな暴動は北アメリカの植民地の人々を大きく燃え上がらせ、独立戦争にまで拡大してしまったのです。このアメリカ独立戦争についてもう少し見てみましょう。