フランスヨーロッパの歴史

ヨーロッパを巻き込んだ大戦争「ナポレオン戦争」をわかりやすく解説!

プロイセンとの戦い

ナポレオンは神聖ローマ帝国が崩壊したと聞くと旧神聖ローマ帝国内の領土にライン同盟を結成しました。これを受けて危機感を抱いたプロイセンはイギリスと手を組み第四次対仏大同盟を結成してフランスに宣戦布告を行うことになりました。

しかし、イエナ・アウエルシュタットの戦いにてプロイセン軍はフランス軍に敗北。10月27日に首都のベルリンに入城しティルジット条約が締結されプロイセンまでもがフランスの属国となることが決まりました。これによって中央ヨーロッパの殆どの国がナポレオンに下ることになりナポレオンは名実と共にヨーロッパの覇権を握ることになったのでした

大陸封鎖令とロシア遠征の開始

こうしてヨーロッパのほとんどの領地を手に入れたナポレオンでしたが、この頃から権力に陰りが見え始めていくことになります。スペインでは王位継承に介入し、スペイン独立戦争が起こるのですがナポレオンはこの鎮圧に失敗。

ナポレオンはフランス最大の敵であるイギリスを完膚なきまでに叩き潰すために大陸封鎖令を発令。この大陸封鎖令で工業化が進んでいたイギリスの貿易をストップさせようと企むのですが、これによってヨーロッパの国々はイギリスの優れた商品を購入することができなくなってしまいました。

そんな中1810年にロシアは大陸封鎖令を無視して勝手にイギリスとの貿易を再開。

ナポレオンはこの報告を受けてロシア攻撃を決意。1812年6月23日に総勢70万の大陸軍がロシアに侵攻。いわゆるロシア遠征が幕を開けたのです。

泥沼の戦争

こうして始まったロシア遠征でしたが、ナポレオンはここで思わぬ落とし穴に見事にはまってしまうことになりました。ロシア軍は退却によってその領地の奥深くまで侵攻させ、侵攻したらその街を一気に焼き払うという焦土戦術という戦術を駆使していき、ナポレオンを翻弄していきます。さらにロシア軍はゲリラ戦を展開したことでナポレオンの軍勢をジリジリと減らしていきモスクワに入城した時には20万人にまで減らしていました。

しかもナポレオンがモスクワに入城した時にモスクワが三日三晩大火に見舞われモスクワは焼失。食糧を確保するすべが無くなった大陸軍は撤退を余儀なくされフランスに退却しました。

このロシア遠征によって大陸軍は大損害を被り生きて帰ってきたのは僅か5000人だったそうです。

 

【ナポレオン戦争第3章】ナポレオンの失脚と百日天下

image by PIXTA / 50961758

このロシア遠征の失敗はナポレオンに重くのしかかることになります。プロイセンはナポレオンの敗北を聞いて宣戦布告。第六次対仏大同盟を結成してライプツィヒの戦いでナポレオンに勝利。この勢いのまま連合軍はパリに入城し、ナポレオンは退位を余儀なくされエルバ島への流刑が決定しました。

その後連合国によるウィーン会議が開かれ戦後処理が行われましたが、ナポレオンは諦めずにエルバ島を脱出。パリに戻り皇帝に返り咲きました。しかし、ワーテルローの戦いに敗北したことでナポレオンは再び退位することになり、いわゆる百日天下の幕が閉じました。

ナポレオンはアメリカへの亡命を企みますが、ナポレオンはイギリス軍の捕虜となりアフリカ大陸の孤島セントヘレナ島への流刑が決定。

直後に第二次パリ条約が締結され、ナポレオン戦争は終わりを迎えたのでした。

ナポレオン戦争の影響

image by PIXTA / 37822674

ナポレオンのセントヘレナ島の流刑によって幕が閉じたナポレオン戦争。しかしこのナポレオン戦争によって諸国ではいろんな変革が見られていくようになるのです。

次はそんなナポレオン戦争の影響についてみていきましょう。

フランス

ナポレオンがセントヘレナ島に流された後、フランスではルイ十八世によって王政復古がなされていきフランス革命以前の体制であるアンシャン・レジームが復活することになります。しかし、もともと革命の主役であった市民がこのまま許すことはなく、フランス復古王政はやがて七月革命で打倒されることに。

しかし、このナポレオンのごたごたがあったこの時にアルザス=ロレーヌ地方がドイツに取られたりしましたがフランスの領域がこのときに確定。またナポレオンの人気も衰えることはなく時代はナポレオンのおいであるナポレオン三世の時代へと移り変わっていくことになります。

次のページを読む
1 2 3
Share: