バルチック艦隊を撃滅した日本海海戦
ロシア帝国は旅順艦隊を支援するため、第二太平洋艦隊(通称、バルチック艦隊)を編成し、日本近海に派遣します。ヨーロッパからの長い道中で、バルチック艦隊は旅順要塞の陥落と旅順艦隊の壊滅を知りました。
バルチック艦隊司令長官のロジェストウェンスキーは本国に作戦中止を打診しますが受け入れられません。やむなく、ロジェストウェンスキーは艦隊を日本近海に進めました。
1905年5月27日、バルチック艦隊は対馬沖の日本海で待ち構えていた東郷平八郎率いる連合艦隊と遭遇します。平八郎は旅順艦隊とぎりぎりの距離まで接近し、急旋回しました。
後に、東郷ターンとよばれるこの運動で連合艦隊はバルチック艦隊の進路を遮断。黄海開戦のときに不発に終わったT字戦法が、今度はうまくいきました。
連合艦隊はバルチック艦隊の先頭にいた戦艦に砲火を集中させたちまち炎上させます。平八郎の乗っていた旗艦三笠も多くの砲撃を受けますが、沈むことなく戦い続けました。
結局、日本海海戦は連合艦隊の一方的な勝利に終わります。バルチック艦隊は壊滅し、ロシアは日本との講和交渉に応じざるを得なくなりました。
連合艦隊解散の辞
日露戦争は日本海海戦や奉天会戦で日本軍が勝利したことにより、日本優位に展開します。ロシア国内では第一次ロシア革命が起き、国内は混乱しました。そのため、ロシア帝国は日本との講和に応じます。
1905年、日本とロシアはポーツマス条約を締結。日露戦争は終結しました。これにともない、戦時編成である連合艦隊も解散となります。平八郎は解散に当たって「連合艦隊解散の辞」を読み上げました。
訓示の中で平八郎は、海軍軍人たるもの常に戦いに備え、平和なときでも鍛錬を怠らないことが大事だと強調します。そして、「勝ってかぶとの緒を締めよ」とのべて訓示を締めくくりました。
一朝のために千日兵を養うと言う言葉がありますが、平八郎はの訓示は、平時の訓練こそ有事の勝利につながると述べているのではないでしょうか。
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日本海海戦において、最前線で指揮をとり続けた東郷平八郎
日本海海戦の時、平八郎は波しぶきがかかる三笠の艦橋で指揮をとり続けました。周辺の幕僚たちが、より安全な場所に移動するよう進言しても平八郎は一歩もその場を動かなかったそうです。東郷ターンを行ったとき、船は大きく揺れ敵の砲弾も三笠に集中していたはずですが、平八郎は微動だにせず海戦終了までその場に立っていました。戦いが終わり、平八郎が艦橋を降りると、甲板には彼の足跡がくっきり残っていました。指揮官自らがリスクをとる姿勢はイギリスのネルソンを彷彿とさせますね。
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