西郷を頼り実現させたイギリス留学
戊辰戦争から3年後の1871年、平八郎は国派遣の留学生としてイギリスのポーツマスに派遣されました。留学の相談を持ち掛けたのが同郷の西郷隆盛です。西郷は平八郎の求めに応じ、平八郎の留学を支援しました。
当初、平八郎はイギリス王立海軍兵学校への留学を希望しましたが、許可されません。そのかわりに、商船学校で学ぶことになりました。
留学中、平八郎は国際法について学びます。近代国際法はヨーロッパ諸国が東アジアに持ち込んだ新たなルールでした。欧米諸国と交渉する上で国際法についての知識は必要不可欠です。
国際法を知らないと、欧米諸国は「野蛮人・未開人」扱いをし、まともな交渉になりません。平八郎が国際法について本場ともいえるイギリスで学んだことは、のちの高陞号事件で生かされました。
日清戦争の始まり
明治維新後、日本は富国強兵・殖産興業を積極的に推し進め、国力を増強していきました。このころ、東アジアでは清国が大きな影響力を持ち周辺諸国を従えています。朝鮮王朝も、清国に従属する立場でした。
日本は朝鮮に対したびたび開国を迫りましたが、朝鮮国内の反対派は清国を頼り、日本の開国要求を拒否します。1875年の江華島事件をきっかけに日本は朝鮮を開国させますが、清国も朝鮮に対する影響力を保とうと朝鮮に干渉を行いました。そのため、日本と清国は朝鮮半島をめぐって対立するようになります。
1894年、朝鮮で排日と減税を求める人々が甲午農民戦争を起こしました。自力での鎮圧が難しいと判断した朝鮮政府は清国に救援を依頼します。清国が日本に対し、朝鮮への出兵を通告したことから日本も朝鮮に出兵。両軍がにらみ合います。
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豊島沖海戦と高陞(こうしょう)号事件
1894年7月25日、日本艦隊が清国艦隊と戦闘状態に入り日清戦争が始まりました。日本と清国が戦ったこの海戦を豊島沖海戦といいます。砲撃戦は日本優位に進展。清国軍艦済遠は不利とみて白旗を上げました。
しかし、日本艦がもう1隻の広乙攻撃のため済遠を離れると、白旗を降ろし逃亡を図ります。広乙を戦闘不能にした日本艦隊は済遠を追撃しました。途中、後続の清国軍艦操江と輸送艦高陞号に遭遇します。平八郎が艦長をつとめる浪速は高陞号に停戦を命じました。
高陞号はイギリス船で、船長はイギリス人。輸送中の1,100名の清国兵を載せていました。平八郎は停戦と降伏を要求し、イギリス人船長は承諾します。
しかし、清国兵はイギリス人船長を脅して逃亡をはかりました。そのため、平八郎は高陞号を撃沈。脱出したイギリス人船長を救助しました。この報せ意を聞いたイギリスの世論は激高しますが、平八郎の行動が国際法にのっとったものだと知ると、批判は沈静化します。
日露戦争と東郷平八郎
高陞号事件での冷静な判断を買われた平八郎は、日露戦争における日本海軍の司令官である連合艦隊司令長官に抜擢されます。ロシアの旅順艦隊と戦った黄海海戦では旅順艦隊に大打撃を与えたものの、潰滅には至らず、陸軍の旅順攻略でようやく目的を達成しました。ロシアはなおも戦争継続をあきらめず、ヨーロッパにいたバルチック艦隊を日本近海に派遣。その結果、日本海海戦となりました。
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連合艦隊司令長官に就任
高陞号事件後、平八郎は少将に昇進し澎湖諸島攻略戦に参加しました。日清戦争後、体調を崩しましたが大事に至らず軍務に復帰。1899年に佐世保鎮守府司令官、1901年に舞鶴鎮守府司令官に就任しました。
日露戦争開戦直前の1903年、薩摩出身の海軍大臣である山本権兵衛は平八郎を東京に呼び戻します。そして、平八郎を常備艦隊司令長官に任命しました。
常備艦隊司令長官は戦時に編成される連合艦隊の司令長官になるポスト。山本は平八郎に日本海軍を預ける決断をしました。この当時の海軍高級将校の中で、実戦経験や命令に対する忠実度、冷静な判断力などを総合的に判断しての人選だと思われます。
明治天皇に東郷平八郎を任命した理由を尋ねられた山本は「東郷は運のいい男ですから」と答えたとのこと。何かしら、期待するものがあったのでしょうね。
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ロシア艦隊を取り逃がした黄海海戦
日露戦争開戦時、日本とロシアの海軍力は1:2でロシア軍優勢でした。ただ、ロシア軍は艦隊を極東の旅順艦隊とヨーロッパのバルチック艦隊に二分しており、日本としては各個撃破出来る可能性がありました。
一方、旅順艦隊は遠からず訪れるバルチック艦隊と合流するまで戦力の消耗を避けようと、旅順港に引きこもります。1904年8月10日、極東総督の命令を受けた旅順艦隊はロシア領ウラジヴォストークに向けて出航。知らせを聞いた連合艦隊は直ちに旅順艦隊を追撃します。
連合艦隊は旅順艦隊に積極的に攻撃を仕掛け、T字戦法で旅順艦隊の行く手をさえぎろうとしました。しかし、展開が速すぎたため、進路妨害の意図を見抜かれ逃げられそうになりした。
ところが、たまたま日本側の砲弾が旅順艦隊旗艦の艦橋に命中。指揮系統が混乱した旅順艦隊は組織だった脱出が出来ず四散し旅順に戻るか中立国の港で武装解除され投降します。結果的に旅順に艦隊が逃げ戻ったため、陸軍が旅順を攻略するまで連合艦隊は気が抜けませんでした。